人が人を馬鹿にするとはどういうことか。 アンマウンティング論

「人を馬鹿にする」ということについてそれなりに真剣に考えたことがある人は、もしかするとそれほど多くはないのかもしれません。そもそもポジティブな概念ではないので、考えたいという欲求もあまりわいてくるものではないような気もします。が、どういうわけか私は長いことこの後ろ暗い営みについて考えて来ました。生まれや育ちに原因がありそうですが、恐らくそうしたものが好きなのだと思います。

まず、大抵の言葉には複数の意味があります。言葉の意味というのは曖昧な広がりを持ち得ますが、広義と狭義、であるとか、見せかけと真、とか、表と裏、とか、2つくらいの対立の中で整理を試みると、なんとなくそれっぽい説得力が生まれたりもします。この場合は、動と静、なんかが良いかもしれません。「面と向かって侮蔑をしたり、自分が相手を評価していないことを伝達する」という、アクションやメッセージングを含む行為としての「動の馬鹿にする」と、単に「相手を低く評価する。軽んずる」という意味での「静の馬鹿にする」が分離できそうです。辞書を見ると、説明にも類義語にも嘲る、侮る、見くびるなどの言葉が並びますが、嘲るは「動」、侮るや見くびるは「静」の側面と接続する感じがします。

特にこれという根拠があるわけではありませんが、なんとなく「動」の方が元々の意味だったのではないか、という気がしますが、ここでは主に「静」の方を論じたいと思います。もちろん、こちらが能「動」的にわかりやすく嘲りの言葉を発せずとも、相手がこちらの価値判断を読み取って「馬鹿にされた気になる」みたいな話もあるので、すべて簡単にこの動と静で綺麗に整理ができるものでもないのですが、直接相手に働きかけて自尊心を削るという営みについては、あまり具体的に深掘りをしても暗い気持ちになるだけだと思いますので、ここは専ら静の方でいきます。

まず、静の馬鹿にするは、侮るや見くびるとは何か違う点があるのか、という問題があります。もしそこに何の違いもないのであれば、わざわざ「馬鹿にする」という言葉を持ち出した上で動と静で分割する、などという手続きを踏まずとも、侮るや見くびるの話をすればよいわけです。しかし、私はここに若干のニュアンスの違いがあるように思います。まず、侮るや見くびるは、反省のコンテクストで使われることが非常に多い。これは対象の真なる実力(そのようなものがあったとして)に比して、こちらが見積があまく過小評価をしてしまっていた、という意味を持つことになります。もちろん、この意味で「馬鹿にする」を使うこともできるのですが、何しろ「動」の意味も持っている言葉なので、比較対象が相手の真の実力ではなく発話者としての自分であるという解釈が強くなります。必ずしも自分自身と相手を直接比較しているとも限りませんが「自分の基準」と「相手の想定上の能力」の比較というニュアンスが生じる。静の「馬鹿にする」は、自分より相手を下に見るという意味が強くでてくるわけです。

ここでさらに(あえての)狭義の「馬鹿にする」

自分より、相手を低く評価するときに、なぜ「馬鹿」という言葉を使うのでしょうか? それはIQの様な純粋な知的能力を示す語彙として採用されているかというと、そんなことはない気もします。何かの基準において相手を自分より格下として見なしているわけですが、それは必ずしも計算能力とか記憶力とかの知的能力ではない。むしろそれ以外のことの方が圧倒的に多いように思われます。であるにも関わらず「『馬鹿』にする」なのです。

私は、これは視野の広さを巡る闘いだからなのではないか、と考えます。人はそれぞれ自分自身の視界(知識や考えが及ぶ範囲)を持ちます。そして、自分以外の人達も同じ様に、限界のある一定の範囲を持つことを知っています。むしろ、ソクラテスを引くまでもなく、他人の限界の方が簡単に意識されるくらいだと思います。自分の視界にある限界を意識することは困難ですが、相手が知らないことを想定することは簡単なので、相手の視界に限界があることはすぐにわかるわけです。

人の視野は、その人が持ちうる視界の広さにもよりますし、立っている位置にも(あえて分離するならその高度、視座にも)違いますし、その時注意を向けているであろう視点によっても違います。狭い範囲にフォーカスして丹念に見ないと見えないものなんかもありそうですし、誰かに見えているものの全てが他の誰かによって完全に把握されている、ということは考えにくい。しかし、自分自身にとって周辺にあたるところに立つ人の視界や視座なんていうものはよく見えないですし、この場合の周辺に位置づけられたものというのは自分の関心から遠い(=価値を感じにくい)ものばかりということになりますから、人は往々にして相手の視野が自分の視野の範囲に実質的には収まっている、という誤解をします。この時、自分からは相手に見えているものが見えているけれども、自分には見えているが相手には見えていないものがある、という考えを持ちます。これが、狭義の静の「馬鹿にする」ではないかと思うのです。

面倒なマウンティングを避ける方法

つまり、相手にこちらの視野には相手にはまだ見えていないものが写ってると思わせれば、馬鹿にされにくい、ということになります。まあ、世の中には本当にこうしたことを考えることに向いておらず、自分が知らないものには大した価値がないと頭から信じていそうな人もいるので、そういう場合にはあまり役に立たないかもしれませんが、相手と異なるバックグラウンドを持ち、相手と異なる視野を持っていることをうまく認識させることに成功すれば、あまり変なマウンティングを受けてうんざりすることも減るのではないかと思います。

そもそも、マウンティングというのが相手を馬鹿にしているが故の行動であるとするならば、それは正に自分の視野が相手の視野を包含していると考えているということになります。しかし、前述の通り、基本的にそれは誤解なわけです。相手しか見えていないものが存在する可能性は極めて高い。であるにも関わらず、その事実が「見えていない」からこそ、マウンティングをしてしまっている。この構造こそが、我々がついついマウンティングをしている人を見ると、ただそれだけで馬鹿にしてしまう理由なのではないかと思うのです。


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