続:仮説思考や論理への偏向が生み出す敗北主義(最大の成果を掴んでの棄却)

の続きというか補足です。

「現場感のある」ちょっと過分なフィードバックを頂いてしまい、触発されたところがあるので。

元記事の話から漏れてしまった重要なポイントが2つあったと思います。まず、ロジカルシンキングが説得の手法であり、聞き手に変容を、より具体的にはなんらかのアクションを求める場で利用される技法である、という前提の上で、ただ論理性が高く隙が少ないということそれ自体には価値はあまりなくて、実際に行動してもらえるかどうかが最終的には重要である、という点があります。もう1つは、それを踏まえて、ある種「結論ありき」の仕事もあるし、その場合にもロジカルであることは要求されている、という点です。

確かに、我々は自然科学の研究をしているわけではないので、客観的な事実との整合性のみを追求していてもはじまらないところがあります。その結果、客観的な正しさよりも実際に行動に移せる施策の方が理論上の最適解よりも優先されるというケースはもちろんあります。この表現だと、それも理論に組み込んだ上での最適解を求めれば良いのでは、と考える人もいると思いますが、相互作用が大きく問題が複雑になるので、この辺りの条件は感覚的なものにならざるを得ない、という現実があります。(まさに現場感です)

一定の妥当そうな前提から、「結論ありき」の結論まで論理的なステップを前向き推論の形で持って行くことは、思考としてはそれほど難しくはないので、これを「ロジカル」と表現することには抵抗感があります。(それをわかりやすく配列して表現することに技術が必要なのは間違いないんですが)。この辺りは元記事で書いた内容とかぶるところです。ただ、その説明に無理があるなと感じた場合は、説明を綺麗に通すために、新しい「前提」を追加する、という方向に向かいます。これはいわゆる逆問題になります。望む結論に「論理的に」至るためにはどのような前提条件が必要か、という思考です。後向きの推論ですね。結局、仮説思考で立てた仮説を棄却した後、また別の仮説(前提)を立てて前向きの推論をして……と行ったり来たりするのと同じことをすることになります。この行ったり来たりの過程の中で、どこまでが探索済み(検証済み)なのかを見失わず、棄却となった場合にどこまで議論を遡って次の分岐に向かえば良いのかがわかる、というのもまた論理的思考に求められる重要な資質であると思います。

ここまで考えると、求められる資質としては以下の3種類くらいがありそうです。

  1. 前向きの推論を行い、その道筋をわかりやすく表現できる

  2. 後向きの推論で逆問題を解き、1.の推論の隙を埋められる

  3. 以上の試行錯誤の最中にも議論を見失わない

元記事は1.だけを偏重する「ロジカルな実利主義者」を批判し、「理屈っぽい」自分達が2.に耽溺しがちであることを自嘲する、という構造でした。

いずれにしてもどんなに論理的に話を進めようとしても、現場で自然言語を使って積み上げた議論には恣意性の混入は防ぎようがありません。どこかしら「結論ありき」になってしまう部分はあります。その上で、どれだけ説得力を持たせることができるか、という勝負でもあるわけです。理想としては、権威からの我田引水で飾り付けをするのではなく、仏師が木の中から仏様の姿を探しだすように、まだ表に出ていない説得力を表出化するような取組でありたい、と思います。


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