仮説思考や論理への偏向が生み出す敗北主義(最大の成果を掴んでの棄却)

子供の頃から「理屈っぽい」と言われて育ち、自分でもそうだと思っているのですが、大学を出る直前くらい(今世紀初頭です)から急に世の中が「ロジカル」を好ましい人格特性の一つと見なすようになったような気配を感じて、妙な居心地の悪さを感じたのをよく覚えています。その後その揺り戻しもありましたが、その多くはロジカル「だけ」では駄目としか言っておらず、相変わらずロジカルであること自体は良いこととされていそうです。今でもその違和感は拭い切れていないとも言えます。そもそも、文章に対してならともかく、人物評価としてロジカルという言葉を使う時点で危ういといえばそれまでなのかもしれませんが。

私は自他共に認める「理屈っぽい」人間ですが、以上の経緯もあって自分を「ロジカル」と表現したことはありません。世の中にはセールスポイントとして、「自分はロジカルな人間である」と主張する人達がいます。あるいは自分と比較して他人をロジカルでないと不満を漏らしたりします。私としては、そのような意見に共感できた例しがなく、むしろ幾ばくかの反発を感じてきました。自分で理屈っぽいことを認めておきながら、何故他人がロジカルを自称することが気に入らないのか。これは、ポジティヴな意味でロジカルという言葉を使う人達は往々にして前向き過ぎて脇が甘い、という不満を持っているからではないかと思います。今回は、そのことについて書きたいと思います。

前向きとは

ここでいう前向き、には実は2つの意味があります。1つ目はもちろん姿勢としてポジティヴであるということです。自分を積極的に褒めていくスタイル。もう1つは、論理の方向が一直線一方向である、ということです。

どうも私には彼らは、妥当であろう前提から出発して、論理的に妥当な推論を経て、妥当な結論に至る、という一連の展開のことを、そしてそのことのみを論理的であると見なしている様に見えるのです。ロジカルシンキングという言葉が概ね帰納や演繹などの推論の型を提示し、その展開をわかりやすく構造化して表現する技法を指して使われていることからも、自分の結論まで他人を連れて行く道筋への自信を表す語として「ロジカル」が採用される流れがあったのではないかと思います。そして、その手順に則った説明を受け入れてもらえない時、相手はロジカルではない、という結論に至ってしまったりするわけです。

しかし、自然言語を使った論理展開なんてものは隙だらけですし、他者とすべての前提が共有されているなんていう状況はありえません。そうであればそもそもコミュニケーション自体不要になりそうなものです。したがって、ロジカルシンキング風のステップを丁寧になぞっても、「完璧な論証」というのは現実的にはまずあり得ない。でも、「ロジカル」な人達は、結構気軽に、「完全に論証した」とか「完膚なきまでに論破した」なんてことを言ったりします。適切なゴールまで辿り着ければ、細かいところはあまり気にならない実利的な人達なんだろうと思います。そしてそれは私の「理屈っぽさ」とはあまり関係がない。

そんな甘さで仮説思考を使いこなせているのか?

そのようなロジカルな実利主義者の人達も私も、ツールとして仮説思考を重用していると思うんですが、ここに個人的には大きな謎を感じています。仮説思考と言ってもそのイメージにはブレがありそうですが、ここでは厳密に網羅的な探索を行えないような制約下にある問題解決の手法として、適当な前提を置き、それが真であると見なして探索をする。それで現実と比較検証できるところまで持って行った上で検証し、整合していなければ前提とした仮説を棄却する。これを繰り返してより良さそうな仮説を発見しようというアプローチのことです。

つまり、背理法を細かく使って、探索範囲を広げていくやり方です。棄却に至ることで、その仮説が偽であるというとても重要な情報を得ることができます。逆に言えば、偽であることが判明した時に議論が前に進むであろう仮説を設定してあげる必要があるわけです。しかし、最終的には良さそうな仮説を見つけたい。このような緊張関係においてロジカルな実利主義者の人達は、かなり早い段階から良さそうな(棄却されなそうな)仮説に飛びつく傾向があるのではないかと思います。それでは、十分なテストがされておらず、現時点での自分達の視界から漏れている隠れた前提が後で明らかになって結論が覆るリスクが高いと思うのですが、「納得感が得られるそれなりに良い結論に早く辿り着く」ことが、細かく穴を潰すことよりも優先されている様に感じるわけです。

私は、もしかすると内心でそういう人達との差別化を狙ってるという卑しい計算もあるのかもしれませんが、いわゆるウェイソンの選択課題(「カードの片面に偶数が書かれているならば、その裏面は赤い」という仮説を確かめるためにひっくり返す必要があるカードはどれか?、という有名なパズルです。詳しくはリンク先をご確認ください)で試されるような論理性を重視して、仮説思考を使う時にはいきなりゴールを目指さずにある程度良い棄却を狙いたいという嗜好を持っています。

論理性を発揮する場面においては「まぐれ当たり」にはある意味で価値がなく(ビジネス的に、というかより上位の判断としてはまぐれだろうとなんだろうと当たった方が良いわけですけど)、再現性がある道筋を重視したい。ただ、その気持ちが強すぎて、もうゴールしてしまって良いような状況でも最後に格好良く棄却される(最終決戦で相手の最終奥義を出させた後で華々しく敗北し、主人公の勝利へ繋げるような)仮説を検証した気持ちになってしまいがち、という内省もあります。

蛇足かもしれませんが、仮説による探索ということのイメージは抽象的すぎてうまく伝わらないかもしれないので、他にも具体的な例をあげておきます。私がよく引き合いにだすのはマインスイーパです。これは恐らく30代後半ぐらいまでの方にしか通じないのではないか、という不安もありますが、かつてWindowsに付属していたゲームの1つです。Microsoftがカタカナ表記の最後の長音記号をつけてなかったくらい昔のものです。

うまい仮説を立ててそれが棄却される時というのは、あのゲームで多くのパネルが開いたり、次にリスクのない選択ができるような手がかりが得られたりする状況に近い。逆に、性急にゴールを目指すのは手がかりが揃いきってない段階で旗を立ててしまうプレイに見えるというわけです。

他にはお絵かきロジックとかイラストロジック、ピクロスなどと呼ばれるパズルにも似たようなイメージはあるかもしれません。何故あれはロジックなのか。それはそこで使われている論理が背理法(と消去法)だからではないでしょうか。

ではいつまで論理を弄んでもよいのか

というわけで、性格上いつまでも結論に行かずに、格好良い棄却を求め続けてしまうリスクがある私ではありますが、お仕事の場合はそんなことをしつづけているわけにはいきません。そこで結局どこかで実利と折り合いをつけなければならなくなります。では、どうやって折り合いをつけているのか。

これは、基本的には消去法ということになると思います。最初に探索空間を予め決めておく。その範囲をうまいこと仮説の棄却をもって削り取っていって最後に残された道筋を回答として提出する、という体裁に落ち着かざるをえません。したがって、結局そこは全然理屈ではないのです。探索空間の定義なんて恣意的なものです。シャーロック・ホームズは、何度か消去法について語っていますが(代表的なのはやはり『4つの署名』でしょうか)、それは彼が予め作者であるコナン・ドイルによって定義された作品空間の中の人物であったから(もっと言えばそのモデルであったヴィクトリア朝時代の社会的な制約条件がより明瞭だったから)可能であったにすぎず、全ての不可能を排除するというのは原理的にはそれこそ不可能です。

そのため私のような理屈っぽい人間が納得するかどうかのラインも結局は恣意的に定義された探索空間次第ということです。それは何故そのように定義するかまで含めて言語で表現するのは難しく、それ故に同じ様な勘所を押さえているかどうかを一緒に働く人達との間で了解しあうことの難しさがあるわけです。だからこそ、安直にゴールに向かっていきそうな脇の甘さをさらけ出してしまうのは、チームの信頼を得るためには結局は不利なのではないかと思うのですが、何故かロジカルを自称する人が後を絶たない気がする……というのが残された最大の謎です。


ちょっと続きを書きました。


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