私家版「陰キャ」の定義とその生存戦略

「陰キャ」「陽キャ」は私が若い頃にはなかった言葉なので、勝手にそれに乗っかるのはある種の文化の剽窃にあたる可能性もあるのですが、「根暗(ネクラ)」「根アカ」では意味合いが違ってきてしまいますし、何より現代では言葉として通じない可能性すらあるのでひとまずこのタイトルで行きたいと思います。

「努力は夢中に勝てない」も「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず。」も、正しく有用な言葉だと思いますが、これを年長者が不用意に押しつけていくのは時に有害なのではないか? というようなことを最近よく考えるので、今回はそこを掘り下げたいと思います。(単にアドバイスとしてのクリシェに抵抗したいだけという気もしますけど)

また、私自身は自己肯定感に欠けているという自認があるのですが、どうも周囲からは「いつも余裕がある様に見えるから、自己肯定感がないと言われてもピンとこない」と思われているようなので、なぜそのようなギャップが生じているのかについても考えてみました。

陰キャとはなにか

恐らく、多くの人が一番最初に思い付くのは「社交性」に基づく定義です。社交性があれば陽キャ、無ければ陰キャ。結果的に前者は友達が多く、後者には少ない。ということになります。この定義でも、例えば日常会話にこの語彙を取り入れるにあたっても、特に不都合はなさそうに思えます。しかし、人の内面に踏み込んで「陰」の陰たるところが汲み取れるかというと、それには少し届いていないのではないでしょうか。

「陰キャ」とは自虐の語でもあります。単純に社交性に乏しく、実際に友達が少ない人であっても、本人がはじめから他人との交流を必要と感じていないタイプの場合、それは単なる(栄光の)孤立であって、自虐として成立しにくいと考えられます。ここは、本当は他人との交流を求めているのに、そこに向けて踏み出せないとか踏み出してもうまくやれない、という弱みがあってこその「陰」と言いたいところです。

そこで第二の定義として「自己肯定感」に基づく定義を考えたいと思います。自己肯定感を十分に備えているのが陽キャ、そうでなく不足しているのが陰キャです。

自己肯定感とはなにか

となると「自己肯定感」が具体的に何を意味するのかが特定されない限り、「陰キャ」は定義できていないということになります。私は自己肯定感とは、自分自身が持つ内的な物差し、自分の「好き」を信じるということだと考えます。それを信じていれば、自分が何かを好きである、ということが、そのまま「その対象が素晴らしい(≒客観的にも高い価値を持つ)」ということに直結します。自分の趣味やセンスの正しさや安定性を信じてるということです。自己肯定感がある人にとって、それは当たり前のことかもしれませんが、そうでない人にとってはまったく直結できないどころか、下手をすると負の相関すら感じかねないものなのです。

自分のセンスに自信が持てない。好きなものを誰かに馬鹿にされてしまったら、その瞬間にそのものの価値がなくなったように感じ、ひいては自分自身の価値も毀損された様に感じる。というのは、それほど珍しい心の動きではないと思います。「他人がどう言おうと関係ない」という意見やアドバイスもたいへん頻繁に目にします。それは結果的には正しいことを言っていると思うので的外れだとまでは思いませんが、本当に気にならないならはじめからそんな意見は出てこないのではないか、とも思います。恐らく、自己肯定感がある人達も、多くの場合は完全に他人の評価を無視できるわけではないからこそ、このようなメッセージを言葉に出して他人に伝えようとしているのではないか、と推察します。つまり、自分のセンスを信じるということにはそれなりの困難を伴うわけです。そしてある程度にせよそれに成功している人こそ「自己肯定感がある人=陽キャ」であると思います。

自分のセンスを信じることの困難

私も高校生の探究の授業のお手伝いなどを通して、テーマ選びには客観的な指標で良さそうなこと(ビジネスプランなどであれば「勝てそう」であること)よりも、自分が興味持てるか、好きなれるか、没頭できるか、ということを大事にすべきだ、みたいな話をよくしています。しかし、そこには多少の欺瞞があるとも常々感じていました。自分が「好き」であることを表明することへの抵抗感は人によって大きくことなりますし、恐らくは年齢によっても変化するからです。

個人的に、これは食の好みにも通じる話だと思っています。例えば子供の頃は味覚が敏感で苦味に強く反応するため野菜が苦手になったり珈琲の良さがわからなかったりするけれども、加齢とともにそれが抑制されてくると、美味しく食べられるものが増えたりします。そこで、大人から「野菜は体に良いから食べろ」とか「自分も昔は苦手だったが慣れれば美味しく感じるようになる」などと言われても、じゃあ食べてみようとはなかなかならないものです。言葉を疑っているわけではなく、その人が克服した問題と、自分が直面している問題は見かけ上同じように見えても、難易度は全く異なっている可能性があるからです。結局、その大人が子供の頃に感じた苦味やえぐ味は今自分が感じているものよりずっと弱かったかもしれないわけです。この溝が埋まることはありません。

そこで、自分の「好き」を信じろ、それに没頭しろ、と言ってみたところで、仮にその助言が有効なものであったとしても、その恥ずかしさを理解していない大人から言われた場合には、なかなか通じるものも通じないのではないかと心配になってしまいます。しかし、実際これはとても非常に重要な話であり、これを真に受けて実行できるかどうかで先は大きく変わり得ると思います。

さしたる信頼関係もない大人である自分が、いたずらにこのメッセージを振りかざした結果、相手が納得するまでの所要時間が逆に伸びてしまう可能性がある気がするのです。

自分のセンスを信じないままやりくりする方法

そこで、これはある種の欺瞞ではあるのですが(私にも「好き」なものは色々と存在するので)、自分のセンス、自分の物差しを信じ切ったり、それを表に出して表現したりすることを避けたまま生きていく方法について最後にその概要を書いておきたいと思います。

それは単純に言うと、「物差しをたくさん持つ」という戦略です。他の人の物差しを観察したり想像したりして、たくさんストックしておくのです。他人の価値観をそのままトレースしてしまう、というと、かなり強火の依存体質をイメージされてしまいそうですが、そうではありません。誰か一人の物差しをあらゆるジャンルに渡って採用しようとするのであれば、そうなってしまうかもしれませんが、たくさんの人の部分的な物差しをかき集める分には依存は起こりません。むしろ、それぞれが相対化されすぎてしまって、そこに真実味や価値を感じることの方に困難が生じることの方が多いと思います。実際、こういう考え方を進めていくと、その時その時の「好き」という感情が解体されてしまう面もある気がします。それはもしかすると、何か大切なものを失っているのかもしれません。しかし、あくまでこれは「自分の信じることができない人向けの欺瞞」の話です。そのようなタイプの人(含. 私自身)にとっては、それは予め失われているので実質的なダメージはほとんど無いのです。

この方法の利点は、何かのきっかけで物差しが揺らぐようなことがあってもその影響範囲が限定的なのですぐに立ち直れるということと、それが故に「自分がすぐに立ち直れる所にいる」という実感が得られることになります。これが、精神的な余裕に繋がります。余裕さえあれば自己肯定感が足らなくてもなんとか社会生活を多少なり有利に進めることもできるわけです。

最後に若い人たちへ

(いや、こんなところを読んでいる若い人がいるとは思えないですけど)

やっぱりそんなことするより、恥ずかしさを克服して自分の「好き」を追求した方が良いですよね!?

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