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仕事のこと2(はじめましてシリーズ)

独立して何年か経ったときに、他の人の撮影の現場で、ライトが倒れてモデルが怪我をしたという事件があったのを機に、会社を作りました。会社にしていないと、何かあったときに、法的な責任がプロデューサーである自分にかかってしまう可能性がある、と知ったからです。撮影のコーディネートの仕事を得意だと思ったこともないのですが、ライターの仕事だけをやっていると単独行動が多くなり寂しくなりがちです。ときどき集団の仕事をすることが、自分に心のオアシスを与えてくれました。

そうはいっても、オーガニゼーションが苦手な自分にとっては、コーディネートするという仕事は、天職ではありません。また人やお金の都合に振り回されるストレスの多い案件もけっこうな頻度でありました。ストレスをコントロールするために、なるべく知っている相手や、紹介で来る仕事だけをやるようになりました。

そのうち、リーマン・ショックがやってきて、雑誌が多数潰れ、原稿料が下がりました。しばらくは「ライターという職業で大丈夫なのだろうか」と思ったこともありましたが、リニューアルしたPopeyeの仕事をいただいたり、そのうち&Premiumの連載をもたせてもらうようになりました。その頃(2010年代前半)は、とにかく大量の原稿を書いていた気がします。いつも締切に追われ、とにかく書いてばかりいました。「このままずっとこの量を書かないと生活していけないのだろうか」と不安を感じることもありましたが、日々の原稿をこなすのに精一杯だったので走り続けました。2012年頃、本を書きませんか?というオファーを頂き、のちに「ヒップな生活革命」という本になる原稿を書き始めましたが、雑誌の仕事や、仲間たちと作っていたiPadのマガジンの作業に埋もれていたため、またどんな金銭的なインセンティブがあるのかを想像することができなかったため、なかなか進みませんでした。「いつか本を書きたい」という気持ちはあったけれど、いざそれが現実になったとき、自分の短距離走者的資質に気が付きました。長い戦いは得意ではなかったのです。

そうこうしている間の2014年、全治半年の大怪我をしました。「働けない」という、働くシングル女子の恐怖のネタのひとつがある日突然、現実になったのです。けれどそうなると不思議なもので、翻訳や電話インタビューの仕事が急に増えたりしました。最初の頃は、痛み止めで朦朧としていましたが、「これは本をフィニッシュしろという啓示に違いない」と「ヒップな生活革命」を書き上げました。


リーマンショック以降、登場した新たなタイプの作り手たちによる文化の潮流と、自分の周りで見られた消費者志向のシフトについて書いた「ヒップな生活革命」は、怪我をして4ヶ月後に刊行されました。まだ松葉杖をついていましたが、刊行のイベントをいくつかやり、ニューヨークに戻ってきたところで、増刷がかかったことを知りました。「ヒップな生活革命」は、本人が想像した以上に多くの人に手にとっていただくことができ、それをきかっけにたくさんの取材依頼や新しいタイプの仕事が舞い込むようになりました。

これがまた仕事のシフトにつながりました。「原稿を書く」依頼がどっと増える一方で、「すべてを自分でやることは不可能」と思うにいたり、ギャラが極端に安かったり、自分の興味の関心からかけ離れた内容の原稿依頼をお断りするようになりました。

同時に、仕事の幅が広がりました。「ヒップな生活革命」を書いたことがきっかけとなって、プロデュース業の仕事がまた舞い込むようになったのです。以前の仕事は、他の誰かが考えた企画を実現するタイプが多かったのですが、本以降は、自分の得意分野での仕事が入ってくるようになったので、以前よりストレスなく、楽しくやれるようになりました。また、こうした仕事のおかげで、自分のまわりのクリエーターたちとコラボレーションするチャンスも増えました。そういう仕事をやることで、新しい刺激を受けるし、それでもらったギャラで、原稿を書く時間を「買う」ことができるのです。(逆に言えば、本や原稿だけでやっていくことが難しくなったとも言えますがこの辺のお金の話はまた今度)。

最初の本のあとに、すぐに新たな本のお誘いをいただくようになりましたが、再びやってきた怒涛の日々に、対応は遅れました。また、一度、本を書いてみて、それが長い時間のかかる作業になるとわかったために、慎重にもなったのかもしれません。最初の本を読んで、「次は女の人のストーリーを書くのはどうでしょう?」と声をかけてくれた幻冬舎の編集者、大島加奈子さんと本を作ることになりました。自分の周りの女性たちの葛藤や戦いについて書く、というつもりで始まった企画ですが、途中、トランプ大統領が選出されたことで、はからずもアメリカの女性たちの「今」を凝縮したような内容になりました。「ピンヒールははかない」が刊行されたのは、それから3年後の2017年でした。

一冊の本を世の中に3年もかかってしまうとは、「作家」としてはほとんど成立していないような気がしますが、私が一番幸せなのは、取材をしているときで、実際に「書く」という作業をしているときではないのです。そして悲しいかな、自分は相変わらず短距離走者なのでした。

「書き下ろしが辛い」という気持ちが、次のプロジェクトにつながりました。アイディアインクのレーベルメートだった内沼晋太郎くんが、自分の出版レーベルNumabooksを立ち上げ、何かやらないかと誘ってくれたときに考えたのは、日記を出版するということでした。トランプ大統領が選出されて激動の時代にあるアメリカについて、日々、感じることがある、だったら毎日これを書いたら、1年後に1冊できる、と思ったのでした。そして、前の本から約1年半後、なんとか出すことができたのが、My Little New York Timesです。

こうして自分がどうやってここまでやってきたかを思い返してみると、どうやら自分にとって「書く」という作業は、いつも自己実現のツールだったようですが、自分が書きたいことがあることがわかっていても、どう表現していいのかわからない時期も長かった。そうやってもがくなかで、自分が得意なこと、好きなことが少しずつ理解できるようになったことで、自分の「作品」というべきものを作れるようになったのかもしれません。

(続く)

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