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しみじみと、手を使う

それは、漬物がきっかけだった。

自分が好む味の漬物をようやく探しあてて
繰り返しその漬物を買ってきては食べていた私は、

ある時
本当はぴったりの味じゃないのに
ちょっと我慢している、ということに気がついた。

とても美味しいのだけれど
ちょっと甘みが、違ったのだ。

そしてさらに気がついた。

裏の原材料を見る限り、
これは自分で作れると。

すなわち、自分で作れば
ちょうどいい味が作れるはずだと。


1960年代終わりがけ生まれの私は、
何でも手でやっていた世代と
何でも機械にやってもらう世代との
ちょうど中間の世代だ。

それは家電と呼ばれる電化製品がどんどん家庭に普及してきた時代であり、
手作りから既製品へと移り変わった時代でもある。


子供の頃にそう言えばこの
『既製品』という言葉をよく耳にした。

大人たちが

「この服は『既製品』なのよ」だとか
「『既製品』のおかずで済ませましょう」

という具合に使っていたのだ。


着る物や食べる物を
出来上がったものを買う。

現代では何の珍しさもないこのことが、
大変化だった時代が少し前にあったのだ。


それまでは自分で作っていたものを
人や機械がこしらえたものを買う、という変化。
それが『既製』という言葉であり、
この移り変わりを体験した人たちが使っていた言葉なんだと
今更ながら思い出す。

そこで思うのは、
昭和が良かったよねという話ではなくて、

自分でやっていたことや
自分で作っていたことの中には
本当に自分がやりたいようにやれるという
満足感がくっついていたのではないかということを思う。

うまく作れないとか
下手くそだとか
出来不出来はあったとしても

それこそ昭和の頃にやっていた
ナイフで鉛筆を削るとか、
鉛筆で字を書き、絵を描く、
黒電話のダイヤルをジーコジーコと回すとか、
マッチを擦って点火するとか、

うちわであおぐとか
雑巾を絞るとか
ホウキで畳を掃くとか
2槽式洗濯機とか
ドアノブを回すとか
窓の鍵をガチャガチャ回して掛けるとか

単純な生活の中で
さまざまなことを
自分でちょうどいいように”加減”していたのだ。


そんなことを思いめぐらせているうちに、

本当には自分にちょうどいいようにやれていないことを
ちょっと手仕事に変えてみようか、と思いついた。

そこでまずは、ふたつ。

漬物を自分で作ることと
衣類を手洗いすること。


自分にちょうど良い加減の味の漬物を食べたかったし、
一人分の洗濯物を大きな洗濯機でゴウゴウと洗うことに
しっくりきていなかったから。

ん?と思いながら漬物を食べることがなくなり
ん?と思いながら洗濯機を回さなくなったのは、

塩や酢の量を加減して好みの味を待つ楽しみができて、
自分が着ていた衣類を自分で洗っている満足感に変わった。

ん?という程度のほんの少しの違和感を溜め込むのは
案外ストレスになっているもの。


小さな爽快感を毎日感じること。
自分の手を使って今日も何かを成し遂げること。
ささやかながらそれらが生活に舞い込んだ。

自分の暮らしは自分の人生。
自分の手でできることが
自分の人生を豊かにしてくれるなら
一つでも二つでも、
小さなことでもいいから続けていこうと
手を使うことをしみじみ、思う。

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