見出し画像

その10 心の奥

 心の奥深く……そこに霧はもう無く、鮮明に視界が広がっていた。
その表層には、透明な何かが厚く重なっている。
薄くて冷たい、まるで雪片のような記憶と感情でできた層。

(幼かった私に親がした‘’これ‘’や‘’あれ‘’は、躾だったのかな。単なる感情の発散だったのかな……。
あの頃は、自分の思いしか見えていなかった。けれど私自身が子育ての時にそうだったように、彼らもただ精一杯自分を生きていただけなんだ。
皆……きっと同じ……。)

流れる涙と共に、雪のひとひらひとひらが溶けていく。
そして、溶けた雪の下に厚い氷の層があるのを見た。記憶にさえ繋がらない圧倒的な‘’孤独‘’の塊だった。

(何があったんだろう。どうしてこんなものがこんな所にあるんだろう。
何ももうわからないけれど、この観念が全ての根本にあったんだな。この視点から、すべてを見てきたんだ。
あの兄弟との出来事もここに繋がってた……。)

━━氷の塊は、生まれて間もない頃に言葉を介することなく抱いた観念なのかもしれない。
そして毎日を繰り返す中で、更に親や環境から重い観念が植え付けられ、それが作った枠に自分を嵌めていく。求められるものを自分に追加し、嫌がられるものを自分の奥に抑え込むことで。

(自分の存在を受け入れてほしかった。認めてほしかったな。その為にその時々の環境に適応するよう自分を変えてきたんだ。)

幼かった自分の心を充分に感じた後、自分の子供のように抱きしめた。

(ほんっと、頑張ってきたね。でももういい。もう、何かに自分を合わせなくていい。
皆同じだったんだよ。許すも許さないもない。正しいも間違ってるもない。
大丈夫。もう本当の自分でいよう。)

氷の層のさらに奥、心の芯に温もりを感じる。
その優しい熱で、少しずつ氷が解けていく気がした……。

 
 ‘’思いやりの形をした何か‘’や、‘’和を形成する為にと思って選んできた行動‘’は、その枠に自分を合わせるのに足りなくて追加した部分だった。

 親の言葉に反射的に自分を抑え我慢してしまっていたのは、親の意向とは違う自分の本当の思いを相手に嫌がられることとして自動認識していたからだった。

 胃潰瘍で診てもらった医師に言われた、‘’言いたいこと口にしてる?‘’という言葉。あの‘’言いたいこと‘’というのは、抑え込むことが当たり前でわからなくなっていた本当の自分自身の気持ちだった。

 黒い塊は、やっと存在していることを主張できるようになった本当の自分。

 ‘’べき‘’という枠。 ‘’正しさ‘’という枠。
それを作ったのは結局自分だった。愛を求め、承認を求め、作り上げたんだ。

 けれどそのうち嵌まっていられなくなった。そりゃあそうだろう。自分の本来の形から出すにも引っ込めるにも、甚大なカロリーを要しただろうから。ずっと戦闘状態だったんだ。慢性疲労症候群になって当たり前。年齢とともに無理になって当たり前。
その上に自分の心を見つめる静かな時間のある環境ができ、誘導するような陀羅尼との出会いがあり……。

 陀羅尼。
これは、仏教に収まらない普遍的な人の心の解放方法を象徴的な言葉で表しているのかもしれない。諸行奉修に続く言葉たちも、その視点で訳し直せるんじゃないか……。
けれどまだ、どうしても掴みきれない言葉があった。
‘’陀羅尼‘’━━。
この言葉そのものが実際に表すものが何なのか。

心の片隅にそっとその言葉を置いて、再び時間を重ねた。