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言語を用いるとは?

最近改めて言語に関する本を読んでいる。昨今の研究では他の動物も言語らしきコミュニケーション手段を持っている、という話題があるが、それでもこれだけ言語というツールを使って地球上のありとあらゆる場所に生活範囲を広げている生物は人間ぐらいだろう。

しかし、デジタル機器の普及で機械も言語を用いて情報処理をするのが当たり前になってきた。そして、発達相談にやってくる子どもたちの言語への認識や用い方も時代とともに変化しているのを感じている。

いや、もしかしたら今までよく分からなかったことがIT機器の発達で機械とのコミュニケーションという新しい言語の領域が生まれたことで明らかになっただけなのかもしれない。

以前なら「ことばが遅い」という主訴の場合、言語の存在すら認識していないことが多かった。そのため、まず要求やサイン(ちょうだいなど)の練習などから始める、触覚を使った遊びなどから対人を意識する、といった関わりからスタートしていた。

しかし、ここ5年ほどは同様の主訴で来ても名詞(好きなキャラクター名など)や日常用いる物や表現については認識していることが多い。つまり、言語の存在は理解しているのだが、それを表出しないことが増えてきた。つまり、彼らは記憶の手段としては言語を用いているが、コミュニケーションの手段としては使いこなせていないことになる。

では、そのことばを表出する際はどうするのだろうか?観察していると大人もしくは機械(PCやスマートフォン)に再生してもらう。今やスマートフォンもタブレット端末は気軽に使える道具だからちょっと操作すれば何度でも機械が話してくれる。それにリモコンの如く絵を指させば大人たちが「あ、○○だね」と名前を言ってくれる。代わりに言ってくれるならわざわざ自分が話さなくてもいいよね、というある意味合理的な論理のようだ。

これは言語に限らず、食事や動作といった身辺自律においてもこんな感じで、大人がやらせようとすると気が向かない限り「なんでそんなことしないとなのさ!?」ぐらいの勢いで反発してくる。

人間が行動するには快楽が大きな動機となる。しかし、快楽追求のまま暮らしていたら生活が成り立たない。知的障害・発達障害の場合快楽を追求して食事、睡眠、排泄、整容といった健康や衛生に支障をきたすことが往々にして認められる。

知的障害・発達障害の場合生活スキルが身につきづらいというのも、生活を維持するには節制とコントロールが重要だからだ。自分でそれが止められないのなら結局外側からの力で変えていくしかない。

言語学者たちはどう考えるのか?

旧ソ連時代に活躍した言語学者ルリヤの著書によれば、外からの声掛けがきっかけで行動する場合はまだことばを行動調整の手段としては使えていない、としている。一般的に子どもたちがことばを実用的に運用できるレベルになるのは2歳後半ぐらいだが、これは実用的な文章を話せる年代と一致している。

文章を話すには一定量の語彙数が必要だし、子どもたちも試行錯誤しながら言語を習得していく。

・主語+述語

・主語+目的語+述語

といった品詞のことばを入れ替えると無限に表現できる、という言語の普遍的なルールを理解していること(いわゆるアメリカの言語学者チョムスキーが主張する生成文法)も重要な要素だ。

このあたりの話題は『ちいさい言語学者の冒険』(広瀬友紀著 岩波書店)で指摘しているので、ご興味のある方はぜひ読んでみてほしい。

ただ、私が会っている子どもたちはこの手の試行錯誤の経験が本当に少ない。暗記した数少ないパターンの表現で賄おうとしている面がある。この点でも言語を使いこなせていないのかもしれない。

最近感じるのはことばの遅れを主訴に発達相談に来ている子どもたちは先程触れた言語ならではの特性を感覚的に認識していないかも?という疑惑だ。

それと同時にこのところ急速に発達したAI(人工知能)はどのように情報処理をしているのか知りたくなり、人工知能と人間の言語習得を比較した言語学の入門書を読んでみた。

こちらの本を読んで改めて感じたのは、私が会っている子どもたちはやはり言語ならではの特性や汎用性について実はよく理解していないのでは?ということだ。というのも、機械の言語処理と類似点を感じたからだ。

AIの場合膨大な教師データが入力され、様々な条件について考えられた関数で計算された結果が出てくる。しかし、それでも教師データとして入力されていないパターンだと不自然な回答が出てくる。AIが得意なのは正解が分かるものであり、未知のことや教わっていないことを尋ねるととたんにエラーが生じる。

一方で、人間は数少ない教師データでもそこから試行錯誤して言語ならではの音声のルールや文法のルールといった特性を認識し、言語の汎用性を見出していく。知らないことでも知識を組み合わせ、推測しながら考察を深めるためにも言語は欠かせないツールだ。

私が会っている子どもたちの場合、3歳以降の発達課題とされるこの手の応用的な課題が往々にして苦手だ。中には知能検査や発達検査をすると答えられないが、同じ答えになることを違う尋ね方をすると途端に正答することはよくあるし、保護者の方たちも「こんなふうに尋ねると答えられるのですね!」と驚くこともある。

彼らにすればそれは教師データにないからエラーということなのかもしれないが、数少ない情報から適切に意味や意図を抽出するのが人間の言語処理だとしたら、どのように指導したらいいのか?をもっと深めないといけないし、もしかしたら私達が分かっていると認識していることは一体何なのか?まで考える必要があるだろう。

最後にちょっと宣伝(汗)

蛇足になるが、私も言語指導についての本を明石書店から6年前に出しているので紹介する。お陰様で昨年3刷が出てありがたい限りだ。

子どもの言語習得について悩んでいる人たちに「こんな本があるよ」とご紹介いただければ光栄です。







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