見出し画像

新装版 A.P.ルリヤ著『言語と意識』(金子書房)レビュー その3(最終回)

病理的な見地から言語を考える

現代は画像診断技術がルリヤたちが活躍した時代からは飛躍的に向上したが、中には画像診断では特に異常がない、もしくは大きな所見がないにもかかわらず(つまり、はっきりとした理由は不明ということ)言語機能に障害が出ることもある。

ルリヤたちが行っていたような言語心理学・神経心理学的なアプローチやそこから築き上げられた理論は現代でも十分通用するし、私たち言語聴覚士が支援しているアプローチは彼らの研究を踏襲しているとも言える。

つまり、必要不可欠であったことは、複雑な言語形成物を脳損傷の個々の局在的な病巣部に直接対応させることをやめることであった。また、必要であったことは、脳損傷は、複雑な、間接的な経路を介して、言語の障害と結びついているという考え方を理解することであった。したがって、脳の、まさに個々のいかなる部位が、言語活動のあれこれの組織化の基礎となっているのかという問題を、別の問題、つまり、人間の言語行為はどのように構成されているのか、複雑な言語活動の諸形式の産出や複雑な言語発話の諸形式の理解をひきつけている各環の基礎には、いかなる心理・生理的要因があるのか、という問題に置き換えることが必要であった。複雑な言語活動の諸形式の基礎にある言語行為内の諸条件を明らかにし、言語過程の各段階を保証している諸要因を抽り出してはじめて、大脳のあれこれの皮質ゾーンが損傷を受けたときに生じるまさにこれらの諸要因の障害が、全体として言語活動をいかに変化させるのかを分析することができるのである。
非常に複雑な言語活動の諸形式の産出の基礎にある心理・生理的諸要因をこのように間接的に分析してはじめて、言語過程の脳における組織化の問題についての適切な研究を保証することができるのである。(p.353-354)

多くの人にとってことばを話すのは当たり前のことであり、スムーズに話せない状況を想像するのは難しいだろう。自分にとって話すことが簡単だからこそ、話せることへの価値を無意識に低く捉えているのかもしれない。

言語の特異性は「ないことを表現できること」に尽きるだろう。人間はないものを意識できない脳の特性があるが、言語化すれば目に見えないものや、三次元世界では存在しないものを存在しているかのように想像することができる。

また、言語でなら簡単に比較や否定の概念を抽出できる。実は絵などで否定を表現するのはとても難しいし、そもそも「ある」と「ない」という対比の理解が必要だ。対比自体は言語がなくても可能だが、より複雑な機能にまで進化できたのは言語が大きな役割を果たしている。

言語機能は多くの人が想像している以上に繊細かつ複雑で、今まで多くの研究者が取り組んでいるものの、未だに人間が言語をどのように利用して情報を処理しているのか、はっきりとは解明できていない。

これから言語がどのような形へ変化するのかも不明だが、人間を知るためにも言語について深く考えることは必要不可欠だと改めてこの本を読んで感じた。記号を用いて情報を操作するのは今までなら人間の専売特許だったが、今やコンピュータも記号処理によって複雑な情報を操作している。

機械の仕組みが複雑になるに連れ、人間の言語処理の特性も明らかになるだろう、と密かに期待している。

機械と人間の共存を進めるには?

しかしながら、コンピュータはあくまでも予め設定された関数に則って計算された結果を示しているに過ぎない。今話題の人工知能(AI)も基本的な仕組みは同じだ。

人間は言語で情報処理を行っているとは言え、同じ材料やレシピで作っても調理した人によってできた料理が変化する。それは人間の場合記号化できない情報も組み合わせて料理するからだし、材料や周辺の状態(季節や材料の種類など)でも微妙に変化するからだ。

だからこそ、機械に人間と同じようなことをさせるのはかなり大変だし、反対に人間にいつも同じ結果を期待するのも難しい。

もう私たちは必要以上に機械と人間を同一視し始めているのかもしれない。子どもたちは生まれながらに機械と人間が共存している中で育っているし、彼らの言動を見ていると機械も人間も「ことばを話す存在」として捉えている節を感じることがある。

SF小説のような話に聞こえるかもしれないが、倫理的な問題も含めて今後考えていかなければならないテーマなのでは?と最近考えている。

巨人の肩に乗っかって

ルリヤという偉大なる知の巨人に導かれるように本を読み進め、読後はちょっとした旅を終えたような気持ちになった。恐らく学生時代に読んだら本と格闘するような気分だったかもしれない。

しかし、今回はルリヤという巨人の肩に乗せてもらい、その巨人に案内してもらいながら言語の森を深く探索させてもらえた。

それはささやかながらも臨床現場での経験を積み上げ、自分なりに考えをまとめてきた成果なのかもしれない。

そして、オタク的な表現をすれば「推し本を世に布教」したくなり、長々とレビューを書いてしまった。もし機会があれば読書会やこの本についての学習会をしてみたい、というくらい感銘を受けた。

天野先生の講義をあまり真面目に受けなかった学生だった身としては、約25年遅れの講義レポートを提出して1つ肩の荷が降りたような、これからまた頑張ろうという心持ちである。

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?