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よい社会を作るための市民の義務

今日はちょっととっ散らかった記事になってしまうのですが、お許しください。。。

先日、牛久入管で起きている外国人の不当な収容問題を知りました。
きっかけは、織田朝日さんという方の、下記のツイートがTLに回ってきたことでした。

これを読んで、一体何が起きているのかと言う気持ちで牛久入管問題について調べ始めたところ、衝撃的な映像を見ました。7〜8人の入管職員が一人の男性を押さえつけて、「痛いから放してほしい」と訴えているのに、手を後ろに締め付けたり首を掴んで、「言うことを聞け」と迫っているのです。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20191224-00156130/

 ※ 扇情的な題名ですが、、
 ※ この他にも、目を覆いたくなるような、命や尊厳に関わる問題がたくさん検索されました。

あまりの痛ましさと理不尽さと、果たして本当に日本は法治国家と言えるのか、どうしてこんなことが起きているのか、故国で内戦や民族的迫害を受けて逃れてきた場所でこのような仕打ちを受けて、どうして生きることが出来ようかと、胸が苦しくて仕方なかったです。そして、この職員らは一体全体どのような価値観で、なんでこんなことをしているのか?!と、職員の個人を憎むような気持ちになりました。

そしてこのニュースを知り合いの方に共有したところ、これは入管職員個人の価値観の問題というよりも、こうした暴行を許してしまう署内の不透明さや長期収容を可能にしている制度の問題なのではないか、と言う指摘をいただきました。

その結果、よく調べてもないのにたやすく触れていいのかと後ろめたい気持ちもありますが、、入管問題に向き合うのは、日本という共同体に住む市民としての義務であると考えました。

この考えに至ったのは、☝︎の方の指摘に加えて、ネルソン・マンデラの自伝「自由への長い道」を読んだことを思い出したからです。この本はマンデラが生まれてから大統領になるまで、自由を獲得するまでの長い闘争人生を記したものなのですが、その最後に「人の善良さという炎は、見えなくなることはあっても、消えることはない。」「抑圧された側が解放されるのと同じように、抑圧する側も解放されなくてはいけない。」という言葉があり、読んだ当時いたく感動しました。そして、この言葉の意味と重みを、入管問題を知って初めて肌感を持って感じました。マンデラ自身も収容者と収容所職員という関係にありながら、職員の善性を信じたということだと思います。

牛久入管の収容者と入管職員の映像を見ていて、どうしても入管職員の方を責めてしまいたくなってしまいました。

しかし、本当に怒るべきは入管問題を発生させている制度であり、その制度を野放しにし、良い社会を築くための義務を怠っている我々市民自身なのだと思いました。

ただ、今この義務をどうやって実践したらいいのか、あまり選択肢を持っていません。問題や原因を把握する、新しい情報収集する、SNSでリツイートする、選挙に行く、署名活動があったら参加する、近しい人に知らせる、位でしょうか。

ということで、まず、問題や原因を把握するところから始めていきたいと思います。

入管問題には移民問題が関係していて、その大元には日本の人口減少や産業構造、また文化の維持など、色々な問題があると思います。

ところで、私は駅ピアノというBS番組が好きなのですが、中でもユトレヒトの回が大好きです。その中で、オランダ在住の南米の方とアフリカギニアの方が即興でセッションをするシーンがあります。

16曲目 29:25~ 南米スリナム出身の男性とギニア出身の男性
2曲とも即興のため曲目不明

これを見たとき、感動して、震えました。
音楽を通じて、異なる文化の人が心を通わせることができるという、こんな機会を私は人生に一体何回持つことが出来るのだろうかと思います。
そして、色んな文化から移民の人が来てくれたら、日常的に異文化に触れることが出来て、こうした「Wow!」がたくさん生まれて、本当はとても豊かな社会になるはずなのではないかと思うのです。

そのためには、私たち一人一人が、異なるものを排除しようとする自らの中の弱さを克服し、異なるものの存在を認め、共存できるようにならなくてはいけません。

これから、人口の流動性が高まり、住む場所や所属する共同体を、国籍や民族によるのではなく、その共同体が維持している文化や目指す将来像によって選ぶ人が増えるのだと思います。

そうした中で、私たちは日本という共同体を、どんな社会にして行きたいのか、何を守って、何を作り上げていきたいのか、考えていかなくてはいけないのだと思います。