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自己肯定感が低くて何が悪い

「僕は自分のことが好き」

こう言うようになったのは、言っていれば自己肯定感が、言葉に引っ張られて高くなると思ったからだ。

ずっと言い続けた。

「自分のこと好きやから」
「うちは自分が一番やな」
「自分が誰よりも好きやし」

自己暗示のように言っていれば、それで何とかなる。そう信じていた。信じて、言い続けて、10年以上経った。

結局、僕の自己肯定感は上がらなかった。

自分に対して、ポジティブなものは思い浮かばない。

自分という人間は、常識の範囲外にしかいられないし、普通な生き方はできない。家事やって働いて稼ぐ、そんな当たり前な生活ができない。

そもそも「普通」だったことなんてない。物心ついた時から、いつだって僕は普通じゃなかった。みんなが乗れるレールに乗れず、違うルートを歩いてきた。

「あんたは普通じゃない」

小学生の頃、そう母親に言われたことを今でも覚えている。

僕は虐待を受け、いじめを受けて育った。
家でも、学校でも、常に否定される環境にいたから、僕の自己肯定感は下がったのだろう。

毎日、「死ね」と言われる学校に登校しろと言う母親は、僕のことを殺したいのだと思っていた。

そういう人たちに囲まれて生きてきて、そういう人たちがいる場所が世界の全てだった。高校に進学して、やっと環境が変わったけど、すでに自己肯定感は下がりきっていた。

それが分かっていても、言い続けてきた「自分のことが好きだ」と。

けれど、最近になって思う。もうそんなことしなくて良いんじゃないかと。自己肯定感が低くて、何が悪いのかと。

僕は自分のことが嫌いだ。

それでいいんだと思うようになった。自分のことを好きだと言っていても、しんどさは変わらない。なら、そのままの自分でいても良いのではないかと考えたのだ。

それは、「自分は普通ではない」と宣言するようなものだけど、普通なんてものは常識と一緒で幻想だ。本来はいろんな人が、あらゆる人が混在している。

人々が勝手に共有している、確かめようのない常識。当たり前のように誰もが持っていると思い込んでいる普通。
それらは、相手が正常であるかどうかを確かめる定規のようなもの。複雑なものを単純化し、変な人を弾き出す装置。

僕はよく思うのだ。
日々、生きていて、勝手に測られて弾き出されることに、抵抗しなければ生きていけないと。

だから、「自己肯定感が低くて何が悪いのか」と言いたい。

普通じゃなくて、常識的じゃない自分がここにいることについて、良いか悪いかなんてこと、他人が判断するものじゃない。

僕は常識という幻想から少し外れたところにいる。だからって、おかしいなどと言われる筋合いはないのだ。

ただ、僕は生きているだけだ。

普通じゃない、常識の範囲にもいない。だから、自己肯定感が低い。それの何が悪い。

僕は自分が嫌いだ。
それでいいんだ。


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