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迷いながら。

 雨が降るたびに少し涼しくなったような気がしますが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。私は今日も愛車とともに街をすり抜けています。

 今日は久々にデスクワークで終始パソコンと封筒に向き合う日でした。これだけ聞くとかなり疲れてしまうように思われるかもしれませんが、実はそれほど疲労感はありません。(もちろん帰ってから大学公募の書類を作るぞという目論見は見事に達成できずでしたが。)同じデスクワークでも大学教員の方が圧倒的に疲れていた記憶があります。一番大きな違いは今の仕事は内容が非常に明確で、とにかく指示されたことを黙々とやり続けるだけ終了します。しかし、大学教員の場合はどのような授業内容にするのか、自分の専門領域と学生の関心領域の共通項を探すところから始めなければいけません。そして、その共通項をなるべくわかりやすくかつ的確に伝えるための資料作りが必要とされるため、これが結構骨が折れる作業です。これを繰り返してきた日々と比べると今の仕事内容はとにかく指示書通りにやればよいだけなので、自分自身の思考というものを挟み込む余地がない分、ある意味集中して業務に向かい合うことができます。

 ところが無地のキャンパスに絵を描く経験があまりない人は、色を指定されて描くことですら抵抗感があるようです。自分では上手に絵が描けているという思っているようですが、実は塗り絵に色を塗っただけということに意外と気づいてなかったりします。挙げ句の果てはこの下絵が悪いといって、絵のそのものを否定したりするので本当に困りますね。

 ただ、今の日本の教育では無から有を作るという行為を導き出すようなプログラムは皆無のような気がします。近年、「探究」という言葉が流行りのように使われていますが、今更探究だけでは何も社会は変わらないのではないでしょうか。実際AIの方が人間の何百倍も早いスピードで探究しているのに、人間がそのスピードに追いつくはずかありません。私は探究より「探索」や「探検」の方が人間に必要なプログラムではないかと思います。単なる知識の深掘りだけではなく、そこに行動が常に伴って知識を知恵を変えていくプロセスを身につけることがこれからの社会で必要なスキルではないでしょうか。AIがいくら頑張っても実際に行動できるのは人間にしかできません。だとしたら今こそ徹底的に行動することに尖った方が、AIとの差別化になるでしょう。

 しかし、単純に「行動せよ。」と言って何でもかんでも動けばいいというものでもありません。そこには常に「何のために行動するのか?」という問いかけが伴っていなければなりません。よくあるのは行動することそのものが目的になっている人が結構多いようです。例えば、私もこのnoteを毎日更新すると決めていますが、更新が決して目的ではありません。わたしが毎日更新しているのは、その日あったことを常に記録する習慣をつけて研究者の素養を高めようという目的があります。また、より多くの人に影響力を与えるためにはどのような表現をすれば伝わるかということを実験している部分もあります。そして、何よりも毎日自分と向き合うことによって、自分がこの世に生まれてきた意味や価値は何なのか問い続けていることが一番大きな目的なのです。なので、もし更新が途切れたとしても、またそこから何度も再開すればいいと思っています。これくらいのいい加減さがある意味「いい加減」なのかもしれません。

 これから大学教員になるひとには、迷って戸惑っている自分も好きだと思えるひとになってほしいと思います。たとえどんな自分であっても自愛し、そして自分が大切にしたいひとと自分を常に愛する日々が過ごせるように私もなりたいです。

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