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神様の世界史39人間の本能

前回は、
人間の寿命は信じられない位、ずーっと昔に決まっている。
そして、
人間とは、忘れやすい存在である、という事を書いてみました。

こんにちは、ファーティマ松本です。

確かに、どんなに健康に気を付けていても
何かの事故に巻き込まれて命を落としてしまう事もありますし、
余命3か月と宣言されても、その後何年も生き続けたという話はよく聞きます。
人の命とは、本当に人間の手中にない物だという事を実感させられます。
しかし、忘れっぽい私達人間は、
死が必ずいつか私達の元にやって来るという事を、忘れてしまっているように思えます。
誰にでも共通してあるもの、それは死です。
死がいつかは、必ず訪れる事、
それがいつやって来るかは、私達の手中にない事を良く理解し、
いつ死がやってきてもいいように用意をしておきたいものです。

さて、さて、

神様はどうして、アダムの背中から彼の子孫を全て取り出したのかを考えていきましょう。
神様は、ただ単にアダムに彼の子孫を見せたかったのでしょうか。
それとも、アダムを驚かせたかったのでしょうか。
それとも、、。
理由は、、、、
クルアーンを見てみましょう。

『あなた方の主が、アーダムの子孫の腰から彼らの子孫を取り出され、彼らを自らの証人となされた時を思え。
(その時かれは仰せられた)
「われはあなた方の主ではないか」
 彼らは申し上げた。
「はい、私達は証言いたします。」
 これは復活の日にあなた方に
「私達はこのことを本当に注意しませんでした。」
と言わせないためである。』
 [7:172]

神様がアダムの腰から私達全員を出したのには、大事な理由があったのです。
それは、私達人間が「アッラーが私達の主である」ということを証言させるため、だったらしいのですねえ。

しかし、、
それってかなり無理があるような気がしませんか。
たまーに
お腹にいたころの事を覚えている子供がいたりしますが、
さすがにアダムの腰から出された時の事を覚えている人なんて、どこにもいないでしょう。
にもかかわらず、なぜ神様は、
復活の日にあなた方に「私達はこのことを本当に注意しませんでした。」と言わせないためである、
などとおっしゃるのでしょう。
それが無理難題であることは、百も承知のはずなのに。

そうです。
私達は、全員一人の例外もなく、この日神様に宣誓をしたことを覚えていません。
しかしながら、その効力、というものははまだまだ私達の中にあるのです。
つまり、
私達は生まれながらにして、唯一の神様を求める本能のようなものを持ち合わせているということです。
アラビア語で、"フィトラ“と呼ばれるものです。
すべての赤ちゃんはこのフィトラというものが備わっていて、
自然に育てばちゃんと唯一の神様を認識できるようになっているそうです。
しかし、親がキリスト教徒にしてしまったり、違う宗教に導いてしまったりするのだそうです。

フィトラ、
唯一の神様を認識し、その神様を崇拝すること。
この力が本能として、人間に備わっています。
ですから、前述のクルアーンの中で、神様はこうおっしゃいました。
「われは、あなた方の主ではないか。」と。
決して「われは、あなた方の主である。」ではないのです。

この違いは、大きいでしょう。
後者はあくまでも教えている形ですが、
前者は、知っている事を思い出させている、と言えます。
「何々だよね、もうそんな事は知っているよね。」といった感じです。

動物には、動物の本能(フィトラ)があるように、人間には人間の本能(フィトラ)があります。

その本能に出会えた時に、人は落ち着きを取り戻すのではないでしょうか。
そして、その本能に出会えていない間は、何かがおかしいという感覚を持ち続けることになります。
何かが違う。何かが足りないと。
そして、その何かを求め続けることになるのです。
魚が水を必要とするように。
私達人間にも、必要とするものがあるのです。

人間には、3種類の必要とするものがあるそうです。
まずは、肉体的なもの。
空気や食べ物のような、生理上生きていくに必要なものです。

続いて、知識。
神様は、人間に知性というものを与えてくださいました。
そのおかげで、知りたい、知りたいといった欲求を誰でもが持っているのです。
小さい子供を見ているとそれがよく分かります。
「なんで、なんで」「どうして、どうして」と、こちらさえ分からないことをしょっちゅう聞いてきます。
別に大人を困らせようだなんて、ちっとも思ってはいないはずです。
ただ単に知りたいだけ。
人間らしい欲求の一つです。

そして最後に、魂部分の欲求です。
魂にも必要なものがあって、それを求めるように私達人間は創られています。
その魂が求めるものとは、すなわち
神を求める心、
神を知る心、
神とつながること。
肉体や知性が何かを欲っし、満たされようとするのと同様に、
この魂も何かを欲し、それでもって満たされようと必死なのです。

魂が求める物
それは、唯一の神様を認識し、その神様が定めた道を歩くこと。
この本能に出会えなければ、一体なんのために生きているんだ、といった問題に解決を見出すことはできません。

その神様が定めた道に立ち返り、その道を歩み始めて、やっと
「あー、そうだ、これだこれだ」と思うことができるのです。
それこそが平安の境地。
イスラム教とは、その道に帰依することにより、平安を得るという意味です。

神様はこのフィトラと呼ばれる、すなわち神様を求める心を全ての人間に備えられました。
人間はもともと”善い”心をもって生まれてくるのです。
つまり、イスラム教は性善説を取っているんです。
キリスト教は反対に、性悪説を取っているのが面白いですよね。
同じ神様から生まれた教えなのに、どうしてこうも違ってしまうのでしょうか。
性悪説とは、もともと人間は原罪という罪を背負って産まれてくるという考え方です。

なぜ、そうなったのか。
それは、イブの登場ではっきりするようになるでしょう。
 
次回に続きます。

今日もお付き合いいただきましてありがとうございました。
みなさまに神様からの祝福がたくさんありますように!
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