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食のこだわりとうやむや

私は食べることが大好きだ。
美味しいものを食べているときが一番幸せだし、好きな人たちとその瞬間を共有できたら、そりゃもう最高と思う。 

でも、食は私が大切にしたいことや、気にしたくないけど気にしちゃうことを包含しすぎていて、たまに何を食べるかで悩んで、すっごいめんどくさくなる時がある。

単に美味しい、だけじゃなくて、環境、人権、健康、持続可能性。でも人と共有する食の楽しさも担保したい…。

「食に対してこだわりあるよね」と言われるけど、このうやむやしながら食べるものを選んでいるところがこだわりを持っているかのように見えるのかもしれない。

平野紗希子さんが、「食を"愛する”ことはしんどいこと」と言っていたけど、その気持ちがすごくわかる。食べ物が来た道を受け止めて愛することは、重い。

マクロビの”You are what you eat”とか、サヴァランの『美味礼讃』の言葉にもあるように、食はその人のひととなりを図らずとも晒してしまうものだと思う。

宗教、文化、体質、年齢、故郷、思想、志向…

多分もっとあるけど、アイデンティティを最も露呈させるものの一つ。

まじでめんどくさいけど、大好きで、知らないうちに私を曝け出す食。

私がもつ食に対してのこだわりって、このうやむやの素は一体なんなんだろう。
それが知りたくて、今月はいろんな本を読んでみた。

速水健郎『フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人』

速水さんの「フード左翼」、「フード右翼」という言葉を借りると、私は確実に「フード左翼」寄りな食生活に傾倒していると思う。
環境問題や人権問題、これからの食糧供給のこととか考えると菜食や有機栽培、スローフードなんかを選びたくなってしまう。

本書より「フード右翼」と「フード左翼」を表すマトリックス図。個人的に石井の存在感がじわ。


しかし、左翼に全振りすることには微かに抵抗を感じる。
というのも、思い出に残る食を振り返ってみると圧倒的に「右」な食事が多いからだ。

・知り合いが捕ってきた猪肉や地元の珍魚
・実家の農作業の合間にワイワイ食べる菓子パン
・頑張った日のゼリパ(サイゼリヤパーティー)
・ドキドキしながら食べる異国料理屋のメニュー

フード左翼からしたら、添加物いっぱいの菓子パンなんてもっての他だ。
ジビエや魚だって実践する理由や信条にもよるけど、ヴィーガニズム的な観点でみたらNGだろう。
サイゼリヤや、異国料理屋で使われている食材は言わずもがな外国産の食材をふんだんに使っているし、悲しいかな、エシカルなサプライチェーンから来たものではないと思う。

工場畜産や大規模農業については反対の立場でいたいし、自分がそのフードシステムの中にいることについては、時折思い出してゾッとすることもある。

でも、フード左翼に振り切って上記の食事を断ち切ることは難しい。
構造的にはもちろん、何かがずっとひっかかる。

藤原辰史『縁食論―孤食と共食のあいだ』

『給食の歴史』にはじまり、『ナチスの有機農業』、『トラクターの歴史』と、大学生活で沢山私の「なぜ?」に答えてくれた藤原さん。今回も召喚。


藤原辰史さんが、「食の切れ目は縁の切れ目」という言葉を本書に遺しているのだけど、なるほど、これが私をフード左翼に振り切らせない理由だと思った。

何かを「食べない」ことで、切れてしまう「縁」が私にとってはデカすぎる。
列挙した食べ物を「食べない」ことは、自分の構成要因の諸々を否定して、断ち切ることに近い。

故郷の漁業や狩猟文化、家族・友人との共食の時間、異文化との出会い。
そういったものに線を引いて、「フード左翼」を名乗る勇気が私にはない。

フード左翼は「自然派」と形容されることがある。
でも私の場合、厳格なフード左翼になったらすごく「不自然」な自分になってしまうのではないかと思う。

「自然派な食事」が心地よいと思う人も沢山いるし、実際私もそちらを好んで食べることの方が今は多い。

ただ、「自然派な食事」ではなくて、生まれたコミュニティで、人との出会いで形成された、人間らしい「自然な自分」も大切にしたくなってしまう。
自分に甘くて、すみません。

わかったこと

結局、私の食の軸、こだわりについてはいまだに言語化できていない。

でも、何かを「食べる」「食べないで」私の「美味しい」は作られないと思った。

「オーガニックだから美味しい」「農薬使ってるからまずい」とかバイアスを持って判断するのではなくて、自然に、感覚的に「美味しい」を感じたい。

あと、どんなご飯でも「いただきます」と「ご馳走様」が言えること、言いたくなることも、私にとっては大切だ。

作ってくれた人がそばに居てくれて、あわよくば感じた美味しいを共有できる人がいて。
心と人がある食の場面では、いただくご飯も美味しく感じられて、「いただきます」と「ご馳走様」が自然と言いたくなる。

3年間お世話になったバイト先の賄い。ここで「いただきます」「ご馳走様」をいえる論は確立されたかも。食だけでなくて、食が作るその先も沢山見せてくれました。
バイト先②の賄い。鹿のハツを始めていただいた。魚だけでなく、野菜もジビエも握る大将。大将のモットーである「多様性とバランス」の大切さは賄いでいつも実感させられました。
実家のパクチーで作ったファラフェル(癖)。「有機」ではないけど、新鮮な野菜で作るご飯は格別。家族とシェア。
グルメな方たちと食のマリアージュを楽しむゼリパ(サイゼリヤパーティ)。食の知識が豊富な方たちと囲めば、サイゼリヤの卓も一流レストランのきらきらなテーブルに。
最近ハマってるスリランカカレー屋さんのカレープレート。スリランカ文化だけでなくある程度のテキトーさも必要だと教えてくれる。


自分が変わるにつれて、こうした今のなんとなくの食に対するこだわり/うやむやも変わっていくのかもしれない。
今まで美味しいと思ってなかったものを美味しいと思うかもしれないし、その逆も然り。
条件は増えていくかもしれないし、減っていくかもしれない。

食が好き&その周辺も私にとっては大切なので、この食へのこだわり/うやむや問題はずっと私にまとわりつく気がする。

左にも、右にも行けない私は、多分これからもいろんなものを食べながら、うんともすんとも、いろんなことを考えていくんだと思う。
そう、食べながら考えていきたい。

みなさんにとっての「美味しい」ってなんですか?
食に対する「こだわり」ってなんですか?
一緒に話してくれる人、考えてくれる人募集。

なんなら一緒にご飯でも。





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