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東と西の薬草園  ①

あらすじ

富居一族は、様々な身体の不調を抱えている。
そのトラブルを解決できるのは、東と西の薬草のどちらなのか。
東の薬草園と西のハーブ園。どちらが理想の庭なのか。
フルーツフレーバーティーで成功したお茶とフルーツのまち、果実町。
次は、レンタルガーデンの事業が進行中。
都会に疲れて平凡を求めて果実町にやってきた若くもない二人。
田舎に愛着があり和風やアジア風が好きな遥と関東の観光客の嗜好を知りガセポのある洋風庭園を推したいカエル。
二人のガーデニング初心者が理想のガーデンづくりを模索する。

※この話はフィクションです。

《登場人物》

富居家(ふごうけ):南九州にある果実町に山丸ごとの広大な別荘地を持つ商家の一族。多角経営で山鳥(やまどり)という飲料メーカーも手掛けている。その事業の一環として、果実町のフルーツを使ったフルーツフレーバーティーを開発し、近年大ヒットしている。

富居香(ふごうかおり):富居家の次女。時折、体調を崩すことがあり、定職に就けず、家業の手伝いをしている。九州のホテル事業のスタッフとして働くことが多く、その間、別荘を利用する。家族からよく見合いを仕組まれるが、病弱なため、あまり気乗りがしていない。田舎に夢を見ている。

山脈遥(やまなみはるか):果実町生まれで、都会で夢破れて地元に戻り、富居家の別荘地を預かる使用人となった。暇を持て余し、出入りの庭師に野草について学んでいる。月に一度の神社仏閣巡りと小物集めが趣味。物を捨てられない、大雑把な性格。ハマると時間を忘れる。

井中かわず(いのなかかわず):富居家出入りの庭師の孫。育ちは埼玉。別荘地の管理を任されている九州の不動産会社の職員。田舎暮らしとイングリッシュガーデンに憧れている。料理、掃除、など細々した家事が得意で几帳面。無駄な残業はしない。果実町の事情に疎い。 

井中野人(いのなかのひと):ふごう家の別荘を任されている庭師。


【フレーバーティーの人気順】
1位 梨のフレーバーティー
2位 メロンのフレーバーティー
3位 マスカットのフレーバーティー
4位 スイカのフレーバーティー
5位 桃と栗のフレーバーティー


第1話「フェンネル(茴香:ういきょう)とクチナシ(梔子)」

到着した駅の線路沿いには紫陽花が咲いていた。白から薄緑、そして青から紫へとだんだんと濃いグラデーションを作っている。駅のプラットホームにも壁際に紫陽花のプランターが列をなして、改札口まで案内してくれる。

「雨か・・・」

数日前に買ったばかりのスーツは、人生で一番値段が張るものだ。できれば、濡らしたくないと思って駅の軒下の壁際ギリギリに引っ込んだ。
入り口付近で、迎えに来た人には見つけやすい場所のはずだ。

「すみません。お待たせしました。山脈と言います。えーと、井中さんですか」

万が一人違いでも困らないようにと慎重な口調と言葉遣いをしている。
スマホ画面に落としていた視線をあげると、雨で蒸す土臭さの中にふわっとフルーツの香りが混じった。
香水の香りかなと一瞬考えたが、目の前の人物はそういうものとはまるで無縁そうに化粧っけがなかった。

「井中です!えーと、迎えってじいちゃんは?」

初対面相手に祖父をじいちゃんなんて幼稚な言い方をしてしまって、頬が熱くなる

「よかった。ちょっと、道に迷っちゃって、お待たせしてすみません。聞いてた雰囲気からしてそうかなと思ったんですけど。えーと、井中さん、おじいさん?の方は、最近運転されないので私が代わりに来たんですよ」

「ええ、すみません。わざわざ。タクシー・・・」

「あらあ、山脈さんとこのはるかちゃんやろ!久しぶりねえ。おばさんのこと覚えてる?」

タクシーでも良かったのにと言い差したところで、背後から静かな雨音をかき消すほどの大きな声が聞こえた。

駅の軒下で傘を差して滴をぽたぽたと落としたまま、よそ行きの格好をした70歳過ぎくらいの背筋の伸びた女性だった。
二人の前に立ちふさがって、そのまま勝手に話し出す。

「こんにちは」
「こんにちは。遥ちゃん、こっちに帰ってきたの?知らなかったわあ。結婚?隣は旦那さん?」
「いえいえ、4月から富居さんと頃で、働いていているんですよ。ほら、富居さんの山のところの庭があるでしょう?庭は井中さんがやってるんで、そのお孫さんを迎えに来たんですよ」
「どうも、井中です」

視線を向けられて、戸惑いつつも挨拶した。しかし、人好きの良い笑みをを浮かべていたおばさんは、すっと表情を消してしまった。

「ああ、井中のじいさんね。はるかちゃん、富居さんところは止めた方がよかよ。仕事は、こっちにこだわらなくても他にもあるでしょう。まあ、富居さんとこには、みんな頭が上がらんのだけど・・・。御免、駅の前でこんな話をしても、ダメたいね。じゃあ、また、お母さんによろしく言っといて」

鼻白んだ顔をしたおばさんは、勝手に話を打ち切り、足早に去っていった。嵐のような人である。祖父と知り合いで、以前に喧嘩でもしたのだろうか。何が何だから分からずぽかんとしていたら、「すみません。話かけられて、じゃあ行きましょうか」と声をかけられた。

言いながらパッと自分の傘を差して、もうひとつのビニル傘を差し出す仕草はどこか緊張感が漂っていて、女性はいかにも人見知りな感じがした。だから、車の中でそれほどお互いのことを話すことになるとは思いもしなかった。

「すみません。本当に運転を代わってもらっちゃって」

「いえいえ、いいんですよ。でも、俺がぶつけてこすっても怒らないでくださいね。その時は、お互いさまということで」

冗談交じりに言った言葉は半ば本音だった。親名義の借り物だという他人の車の運転で、傷でもつけたらおおごとである。迎えに人を寄越すと言われて、まさか他人が来るとは思いもしなかった。
今年80歳になる祖父が先月免許を返納した。そこで、誰が迎えに来てくれるか考えれば良かったが、誰か親戚が来てくれると思っていたのが甘かったようだ。
しかし、親戚の誰も手が空いていないなら、駅でタクシーを拾ってよかったのだ。祖父も、タクシー代を心配するくらいなら、初対面の人間に乗る居心地の悪さの方に配慮してほしかったと思う。

「それにしても、この辺で住んでいてペーパードライバーに近いなんて珍しいですね」

南九州の山に囲まれた盆地の片田舎である。車がないと、コンビニに行くのすらままならない。
促されるまま助手席に乗って、黙ってスマホを見ていたら、見通しの良い上り坂に入ったところで、ガタンと車が音を立てて傾いた時には何事かと思った。
聞けば細い道に差し掛かって後ろから車が来たので、運転に自信のない彼女は後続車を追い越させようと、ちょうど脇に広い駐車できるスペースを見つけて車を停めようとしたということだ。ところが、そこで車に勢いがつきすぎて縁石に乗り上げてしまった。一歩間違えば、木々が生い茂った崖に落っこちるところだった。
その運転の腕前で他人を迎えに来ることが恐ろしい。しかし、地元民の彼女がまさペーパードライバーと思わずに祖父が頼んでしまっただろうことなので、迎えに来てもらった方は文句は言えない。
「運転代わりましょうか」と申し出ると、一度の遠慮もなく、申し訳なさそうに頷いた。人付き合いも運転もいかにも物慣れない風だった。

「4月になる前にこっちに帰ってきたばかりなんですよ。その前は東京の方で働いていて、車が必要なかったので」

「そうなんですか!奇遇ですね。俺も4月にこっちに就職してきた口なんですよ。埼玉で育ったんですけど、母の実家がこっちで、今はじいちゃんが一人で住んでいた家にやっかいになっているんで。それにしても、」

「そうなんですね。その割には運転が板についてますね」

「不動産会社の営業の仕事をしているんで、否応なしに運転する機会が多いんですよ。本当はSEとか事務で入ったんですけどね」

「SE?」

「システムエンジニアですよ」

「ああ、そのSEですね」

すぐに合点がいったようにうなずいた彼女は、少し眠たげだった。がくんと顎が落ちそうになるのが、隣で運転していると分かる。寝てもいいですよ、と言いたいが、寝られると、行き先までの道順が分からなくなる。
ペーパードライバーに眠たいまま運転させなくてよかったと、運転を代わった判断に運転する方は我ながらほっとしていた。

「えーと、カエルさん?で良かったですか?あの、カエルさんは関東生まれなら、なんでこっちに仕事を変わられたんですか?ご結婚とか?」

山に囲まれた盆地一体の地域で一番大きい駅から、隣の町でも目的地まで車で30分以上かかるのは地方ではありがちなことだ。黙っているのも気づまりなので、お互い世間話をする空気になった。事故を起こしかけたことが会話のきっかけになったのは、怪我の功名だ。

土の中から生まれて風に流されて浮いている糠のように細かい霧雨は、車の優しくフロントガラスを叩いて、水滴になって流れていき、ワイパーの音よりずっと会話する声を邪魔しない。
駅で彼女がつけている香水の香りかと思ったものは、車に乗せてあった箱入りの桃と、このあたりで人気の土産物であるフルーツフレーバーティーが段ボールで2箱も車に乗せてあり、その香りが移ったものだった。

市町村の境を超えると、少しだけ開けた窓の隙間から、それまでと違った空気が社内に流れこんできた。
建物に遮られることなく、四方をぐるりと囲む山々が見える。青々とした杉山は普段にはあまり風情がないが、雨の日にはもうもうと煙霧を立ち上らせて姿がかすみ、さながら水墨画の世界である。
田植えの終わったばかりの水田が、灰色の雲を映し、柔らかい雨に打たれている白鷺が水鏡に姿と同じ大きさの影を落としていた。
雨だけではない外のフルーツの里でフルーツフレーバーティーの香りが朝霧にけぶる果実町。車の中の香りを胸いっぱいに吸い込むと、改めて良い町に引っ越してきたと思えた。
ぐるりと里を守る山はまるで、この里を要塞にしているようで頼もしいとカエルは思う。

「結婚はしていないですよ。よくある理由というか、都会の生活に疲れちゃって、田舎で暮らしてみたかったんです。こっちには子どもの頃からよく来てましたからね。名前らしい生活をしてみたかっていうか。カエルって言ったのじいちゃんでしょ?家族全員俺のこと、カエルって言うんです。生まれた時鳴き声が大きくてうるさかったから名前をカエルにしようっていう親のセンスを疑いますよね。それで『カエルはちょっとやめた方が・・・』って役ショアでやんわり止められたところでやめてくれたらよかったのに、『カエルがダメなら昔の言い方に変えとけばいいか』って発想が安易なんです。ほら、カエルって学校の古文なんかで昔は”(蛙)かわず”って言ったって習うでしょう。そのかわずですよ。小学生の時までは良かったけど、古文習った中学生の時から同級生にもかえるって呼ばれ出しました。だから、まあ、かえるって呼んでもどっちでも良いです。親戚なんて、もしかしたら、本当に名前がかえるって思ってるかもしれないし、そのうちこの辺の人全員から、かえるくん呼びされるかもしれない」

名前に由来は、井中かわず、もとい、カエルにとって鉄板ネタだ。生まれてこの方何度も人に話してきて、最近は営業の時に最初の掴みのひとネタにもなっているので、語りは滑らかで饒舌だった。
反抗期だった中学生の頃は、名前が嫌で親に文句を言ったことがあったが、そのたびに父と母が責任を押し付けあって、両親の方が口論になるので、いつの間にか言わなくなった。父いわく、「反対したけど、(母が)聞かなかった」ということで、母いわく、「(夫も)ノリノリで、別に反対された記憶がない。止められてたら、わたしだってつけなかった」ということだ。
どっちにしろ、カエルを思いついた時点で二人とも他の名前は候補に考えなかったというのだから、二人とも同罪だ。
子どもの頃には、多少からかわれはしたものの、名前でいじめられたということもないので、実際名前がそれほど嫌という意識もなかった。
寧ろ、助手席の遥のように微笑ましく聞いてくれる人が多い。話し方のよって物事の印象は変わる。
「いじめられました」「嫌だった」しか言わなければ、暗い話で終わってしまうが、それが他人との話題のきっかけになるというのも悪くはない。

実際、カエルが饒舌になって、車の中の気づまりな雰囲気がなくなると、遥もほっとしていた。
最近、免許を返納したカエルの祖父、井中野人に彼の迎えを頼まれた時には、最近、野人の送迎をしている身として、「街中を運転するのは実は怖いんです」とは正直に言えなかった。
案の定、事故を起こしかけた時は焦ったが、カエルが穏やかな気性で助かった。意志の強そうな短くすっきりした太い眉と少しぽってりしたよく動く唇は、祖父の野人に似て見えなくもない。
背がひょろっと高いところも、遺伝なのだろう。野人の住む隣町は背が高い人が生まれることが多い地域でもある。

「じゃあ、ハルさんは富居家の別荘の管理人をしているんですね」

「管理人なんて言っていいのかどうか分からないんですけど、空いているロッジじ住まわせてもらって、事務的なことがあったら、対応する留守番係ですかね。暇だから、井中さんの庭仕事を眺めるのが楽しみなんです。と言っても、草むしりくらいなんですけど・・・。あ、着きましたよ」

みんながカエル呼びなら、遥もそうしようかと思ったが、一方的にあだ名呼びも気が引けて、学生の時に使われていた”ハルさん”呼びにしてもらうことに落ち着いた。庭師の野人を井中と苗字呼びしているので、どっちも井中で呼ぶと区別がつかずに面倒だ。

二人が目的地に着く頃になると、一日大雨の天気予報を覆して、雨は小休止した。

カエルは目の前に広がる世界に目を見張った。上り坂の狭い小路を抜けると、鉄格子の塀で囲まれた要塞のようなお屋敷が建っているのかと思っていた。
しかし、車のドアを開けた途端にまず、花の甘い香りが鼻をついた。霧雨を揺らす風に乗って、ハーブの爽やかな香りも届いた。個人の屋敷にも関わらず、ちょっとした観光所並みの駐車場には、庭に抜ける道に薔薇のアーチがあった。そこを抜けると石畳で作られた道沿いにやはり石造りの花壇があちこちに作られ、整然と距離を測ったようでもないのに、まるで計算しつくされた美しい庭が広がっていた。

「きれいな庭ですね。今まで見たどこかの観光名所の花園より、一番きれいかもしれない」

「あまり知られてませんけど、このシーズンは特に花を見学に来られる方もいますよ。富居家はさすがに太っ腹で、敷地のほとんどが出入り自由になっているんです。さすがに重要文化財になっている母屋の近くには入れませんけど、向こうの自然公園は私有地のキャンプ地になっているんです。どのくらい広いか分かりませんけど、花の手入れとか井中さん、えーと、おじいさんが一人で手入れされているんですよ。すごいですよね。あんまり、立派な庭だから、後を継いでやる人がいなくって、未だに井中さんが頼まれているんだって聞きました」

遥の説明を、かえるは歩きながら夢見心地で聞いていた。野人は造園業の社長をしていた、建築士だ。会社は20年近く前にカエルの叔父にあたる父の弟に引き継いでいたが、頼まれて個人で庭仕事を請け負うことは多かった。
腕前は東京で商社の会社員をしている父の自慢でもあり、夏休みに田舎に帰って車でこのあたりを走るたびに、「あの土地の庭はじいちゃんが作ったんだよ」と父から耳にタコができるほど聞かされた。
それでも、当時は子どもだったせいか、これほどの感動を覚えたことはなかった。学生時代くらいから、こちらに移住してくるまで、祖父の庭はとんとご無沙汰だった。祖父と一緒に住んでいる家の前は、ほとんど畑になっていて、梅雨に入った今は、ナス科の野菜が多く実っている。

目の前に広がっているのは、まるで、夢の庭である。

花壇の一画に緑に埋もれるように作業をしているツナギ姿の祖父を見つけた時には、まるで野人がおとぎ話の住人のように見えた。

「井中さーん、まだ作業されていたんですか?」

「ああ、ハルちゃん。そうね、ちょうど雨が止みんさった(止んだ)からね。いまんうちに、もうこの辺は収穫しようと思って。種も出とるしね」

遥が遠くから声をかけると、野人は、作業する手を止めて二人の方を振り返り皺だらけの顔に柔和な笑みを浮かべた。

「おお、カエル、仕事は終わんしゃったとね(終わったのか)」

「うん。昨日県外に仕事に出て泊まりだったから、今日は直帰よ。じいちゃんもほどほどにしないと」

5年ほど前に妻が亡くなって、野人は仕事はもう引退すると言っていた。しかし、腰が痛いと言いながら、富居家の庭に毎日のように通っている。これほどの美しい庭を作るのは、もはや祖父の生きがいなのだと、今日初めてこの庭に来て納得した。
祖父の隣に立つまでに、カエルは屋敷の庭を一周してみた。屋敷の表側の西側は薔薇園とハーブ園が広がる洋風庭園で、裏の東側には砂利が敷かれ、松の木や錦鯉が泳ぐ日本庭園があった。
建物の外観は、洋風だ。真っ白い外壁、玄関口の二階にはせり出したバルコニーがある。明治時代に学校建築を手がけた建築家の作と伝わる建物は趣があり、洋風と和風のどちらの庭園とも似合っていた。

「ばってん、来たんからには、この辺はしてしもうな、気がすまんけんね(だけど、来たからには、この辺のことはしてしまはないと、気が済まない)」

「じいちゃん、それなら、暇だから、俺も手伝わせて。じいちゃんが言ってた通り、一見の価値があるすごいお屋敷だね。これを抜けばいいの?」

「うん、全部抜いて別んとば植えようと思っとるけんね」

野人が答える前に、カエルは腕まくりした。そうなると、特に予定もない遥も手伝うと言わないわけにはいかない。
ここの管理人の仕事は、本当に暇なのだ。いてくれたら、特に用事を頼むとき以外は自由にして良いと言われている住み込みの仕事は、普段見張りの住人もおらず、何もすることがなかった。
何とか一日のルーティンを見つけようとこの2ヶ月半試行錯誤しているが、全然上手くいっていない。

「だんだんなあ(ありがとう)。ハルちゃんには、悪かったなあ。朝も早うから起こしてからに。カエルの迎えを頼んでしもうて」

遥は野人の言葉を苦く聞いて、自分も草むらにしゃがみこんだ。
雨が上がったばかりのむっとした湿度の高い空気が、身体にまとわりつく。すぐに背中に汗がにじんで、フェンネルを身体がひっくり返りそうになりながら素手で抜き取る時に飛び出した無数の濡れた土が、小さく顔に飛び散り、手をはたくとぬるりと土の感触がした。
尻もちをついた遥を見てカエルが声を上げて笑った。
笑い事ではない。慣れない庭作業で、虫に刺されないかばかりが気になる。
野人が取ってきてくれた軍手をつけながら、ため息を飲み込んだ。

生活は梅雨に入ってはいっそう怠惰になり、今日は野人が来る時間に起きられなかった。野人は作業する前に必ず遥のところに来る。外から何度も大きな声で呼んだのだろう。
声に起こされた遥は慌てて身支度を済ませ、野人に挨拶をして、あり合わせのもので朝食を摂った。朝食だけは、毎日とるのが暇な生活で習慣化している。
そして、もうすぐ駅に着くというカエルの迎えを頼まれた時には、普段習慣のない化粧をする暇もなく、慌てて迎えに行かなければならなかった。
カエルが駅に着く時間は前もって野人に伝えてあったので、ギリギリに頼んできたのはわざとだろう。
野人はまだ若い遥が山奥で一人籠って生活をしていることを心配している。
実家は山を降りてすぐなので、頻繁に顔を出しているが、訪ねてくる野人以外は没交渉だ。
それを知って、わざわざ必要もないのに、庭仕事の前に野人は声をかけるのだ。庭師で信用があり、敷地のどこも自由に出入りできる野人が富居家の住人に会ったこともない新参者の遥に許可を取って、庭作業をする必要はなかった。

遥は地元住民だから、田舎生活なんて子どもの頃に十分に満喫している。都会に疲れて帰ってきたわけでもない。ただ、転職を繰り返し、どこの職場でも居場所がなく、前の職場でも向いていないと言われたところに、たまたま地元のこの管理人の求人を知って、流れで帰ってきた。
ところが、10数年ぶりに住んでみか故郷はすっかり様変わりして居心地が悪く、いや、ある面では何も変わっていないことに失望して、遥は世間と没交渉になってしまった。
とにかく、他人に会いたくない。その気持ちがどこから来るのか、遥も自分ではっきり分からなかった。

「じいちゃん。これはディル?葉っぱを食べていいなら、少しもらっても良いかな」

「良かよ(いいよ)。庭のもんは自由に使うて良かって言われとっけんね。午後にお嬢さんたちと料理人の人が来なっそうばってん。こぎゃん(こんなに)使わんやろ。これはフェンネルたい」

「へえ、ディルとよく似てるね」

カエルは抜いたフェンネルの葉の一房の香りを嗅いだ。カエルは自炊が好きで、ハーブも使うがフェンネルを見るのは初めてだ。放射状に広がった黄色い小花は控えめだが、香はハーブらしく強い。ディルと同じように魚や肉の臭み消しに使えそうだと思った。

「ディルとフェンネルはよう似とっけんね。でも、フェンネルな、あますところなく料理に使ゆっとよ(フェンネルはあますところなく料理につかえる)」

野人が作業しながら、顔を向けてきたので、カエルはしまったと思った。植物に愛の深い野人は、話始めると長い。特に薬草は亡くなった妻が料理好きでそのためによく研究していたから、一人になってからは妻の思い出がまじって話は倍の長さになった。

思いで話を除くと、フェンネルという植物について大体のことが分かり、隣で聞いていた遥も興味深かった。
フェンネルは多年草、ディルは1年草だ。
多年草というのは、数年にわたって枯れず、毎年花を咲かせる。1年草は、生育が早く、1年で開花、結実まで終わる。
1年草の方が育てやすく、ガーデニング初心者にはおすすめ。フェンネルの方が、ディルより草丈が高い。
フェンネルは葉も茎もシードも料理に使える。

「ここん人な、料理人を呼んで庭のものば使って料理してもらいなっとよ。育てがいのある。生活に根付いた庭づくりばよう分かっとんなっさあ(庭づくりをよくわかっている)。だけん、西も東もたくさんの生薬を植えとっと(植えているんだよ)。薔薇も使いなっけん、農薬は極力使わんたい。」

「いいなあ、うちも野菜ばっかりじゃなくて、庭に薔薇を植えようよ。アーチとか東屋とかおいて、イングリッシュガーデン風にさ。家の外観だって純和風じゃないんだから、きっと似合うよ」

「自分で育てるならよかばってん(自分で育てるんら良いが)、薔薇は初心者には向かんよ。手のかかる。ばってん、ハルちゃんな、住んでるとこんのそばにゃ自由にして良かとよ。聞いてみたばってん(聞いてみたけど)、良かっていいなさった。野菜でも花でも苗でも種でもうちから分けるし、もらゆっけん(もらえるから)。経費たい、経費」

野人が期待に満ちた目で、遥を見た。野人には、よほど遥が何もせず暇そうに見えるのだろう。以前から、何か作物を育てるように勧めてくる。そのたびに、富居家の住人の許可がないとと言って断ってきたが、野人の方で確認を取ってくれたらしい。

「へえ、ハルさんこのお屋敷に住んでいるんですか」

事情をよく分かっていないカエルが明治からある重要文化財の母屋を振り返って言った。

「いえいえ、ここに複数建っているロッジの一棟を借りて住んでいるんですよ。お掃除は月に一度業者の人が入っているから、私は母屋の方にいくこと」

だから野人の言う通り、何にもしていない暇人なのだと口にしそうになっとのを、遥はすんでのところで踏みとどまった。

「へえ、いいなあ。ロッジに住んでガーデニングやるなんて良いじゃないですか。憧れるなあ」

「そうですね。でも、薔薇はトゲもあるし、手入れも大変だし」

遥はどうしても気が進まずに、先ほどの野人の言葉を借りた。今はとにかく、何もやりたくない。田舎育ちだからと言って、庭仕事に慣れているわけではない。子どもの頃から、活発に外で遊ぶ方ではなかった。

「大変なら、カエルば手伝いに寄越すよ」

「そりゃ、いいや。手伝いますよ」

カエルは乗り気になったが、「とんでもない」と遥は強い口調で断った。
カエルがあからさまにがっかりした様子なのも信じられなかった。
ガーデニングをすること自体億劫なのに、そのために、他人が訪ねてくるなんてとんでもない。結婚など夢見る年齢は過ぎてきたとはいえ、カエルも未婚だというし、変に噂が立つのは嫌だ。
その気もないのに、カエルがいつ来るかもしれないと、化粧を気にしたり、のばしっぱなしの髪をどうにかしないといけないかと考えるのが面倒だ。
野人に何か生活を変えるアクションを促されるたびに、まだ、しばらく、怠惰な生活を味わいたいと思っている自分を実感させられてしまうのだ。

しかし、黙ってしまった野人を見ると、罪悪感を覚える。
フェンネルをあらかた取り終えると、むっとした熱気を払うような甘く上品な香りを思い出して、頑なだった遥の気持ちも少しほぐれた。

「じゃあ、向こうの方にあるあの白い花をいただいても良いですか。あるものを飾ってみて、何を植えたいか考えます。薔薇とか西洋風のものより、もっと日本の家の庭でよく見かけるようなものを考えたいです。いや、この辺の農家の人の庭はすごすぎるから、なんていうか、そうですね、緑のハーブ園というか、中国の薬草園みたいな無造作な感じが良いですね」

遥は中国の薬草園に行ったことも見たこともないので、適当なイメージで言った。とにかく、プロに見られるところで、最初から枯らしたくはないから、できそうなことをイメージした。この辺の田舎の農家の人の庭といえば、玄人顔負けで、手が込んで綺麗に整っているところが多い。薬草園というともうちょっと無造作で何か目標になりそうな気がした。

「うーん、作るなら、イングリッシュガーデンみたいなのが良いんじゃないかな。最近流行ってるガーデニングっていったらそういうのじゃないかなあ。いざとなれば、プロのじいちゃんが手伝ってくれるわけだし」

あわよくば、野人の手ほどきでここで一緒にガーデニングをやりたいと思ってカエルが口を出す。しかし、自分では譲歩したつもりの遥はむっとした。

この庭を一目見て、憧れてしまったカエルの気持ちは分かる。観光客がわざわざ調べて見にくるくらいの場所であり、カエルは田舎暮らしにあこがれて移住してきたくらいだから、なおさら理想を見た思いだろう。

しかし、本当にガーデニングをするつもりなら、この庭をもう少し冷静に観察すべきだ。
自然と人工物の融合を是とする野人は、人の快適さにばかり重きを置かない。
カエルは気にならないようだが、この庭は蜂の羽音が相当うるさい。庭にいれば、鳥の声も集団で絶え間なく聞こえてくる。
それこそ、夜はこの梅雨の時期、毎日”カエル”が大合唱している。広々とした富居家の屋敷の中はともかく、借り物の小さなロッジの中では外の虫の声で寝付かれないほどだ。

理想と現実は違うとカエルに強く言いたかった。
庭木の手入れは重労働で、草むしりは夏は毎日必要だ。
庭作業は虫に刺される。
なにより、庭に花を綺麗に飾るにはセンスがいる。
適当に選んだ花を適当に植えれば、美しい理想の庭が勝手に出来上がるわけではない。

そんな遥の気持ちを知ってか知らずか、野人は淡々と作業を終えて、見慣れた鍵をはるかに渡した。

「フェンネルと野菜ば、台所に置いてきて。うちん庭は、自分ところで食べる野菜くらい、せめて夏の間は作らんと。カエルが庭ば(ガーデニングを)したかなら(したいなら)、ここを手伝うのはよかよ。そいで、今日も野菜は、うちの畑から持ってきたたいな。ああ、そうだ、肉ば買い忘れてきた。お嬢さんたちが来なっとに」

「え、富居さんたちが来るんですか」

「そうね。あら、言うとらんかったかな(言ってなかったかな)。お嬢さんたちば迎えに行かんばいけんよ。頼むね」

野人があっけらかんと言って、遥は蒼褪めそうになった。

そういえば、さっき会話の途中でもそんことを言っていた気がするが、聞き流してしまっていた。今日富居家の人がやって来るなんて、遥は今初めて聞いた。「電話がかかってきた時、伝えてほしいって言われて、忘れとったよ」と野人は弁解したが、きっとわざとである。
前もって伝えたら遥が配達を頼むのを見越して、直前に言ったに違いない。そうやって、カエルの迎えに行かせたり、富居家の送迎を勝手に引き受けたりして、遥を何くれと外出さえようとしているのだ。
富居家の敷地には外電がある。遥のスマホの電話番号は伝わっているはずだが、スマホに電話がかかってきたことはほぼなく、メール連絡か、外電で、野人が出てしまうことも多かった。野人に連絡があることもあるので、それは構わないのだが、それをこういう風に利用されては困る。

遥が富居家の山と実家の往復しかしないのは、人見知りで引きこもりになっているというだけではない。運転に自信がないから、地元すらあちこち行けないのだ。

「それなら、じいちゃん迎えにはハルさんの車を借りて俺が行ってくるよ。ハルさんは家の中を整えたりして準備していた方が良いと思う!」

遥の運転の腕前を身を持って体験したカエルが助け舟を出した。
空は雲行きが怪しく、また雨が降り出しそうである。そんな中、遥に細い山道を運転させるのは危険だ。

「ばってん、カエルな(は)富居さんたちと会ったことがなかろうもん。顔も知らん人間が迎えに行っても不審がらるっやろうもんね」

初対面のカエルを迎えに行かせたくせに、どの口が言うかと二人とも思ったが、言う通りではある。富居家といえば、多角経営で日本を代表する事業家で、山鳥(やまどり)という日本の誰もが知っている飲料メーカーも手掛けている。その事業の一環として、この別荘が建つ、遥の生まれ故郷の果実町で果実町のフルーツを使ったフルーツフレーバーティーを開発し、近年大ヒットさせた、この町の大恩人である。お金持ちで、他人への警戒心は強いだろう。
遥も会った事はないが、別荘の管理人といえば伝わるだろう。しかし、突然カエルが行ったら、何者だと思われてしまう。

「それなら、じいちゃんも行けばいいじゃん!じいちゃんの孫って名乗れば解決する」

「3人も乗すっと狭かよ(3人も乗せると狭いよ)」

「じゃあ、じいちゃんは駅で下ろすよ!富居さんたちに挨拶した後、おばさんにじいちゃんを迎えに来てもらおう。うん。そもそも、じいちゃんはおばさんに送り迎えしてもらってるんだろう。そのついでに、俺も一緒に帰るって話だったんじゃないの」

「そうね。1時前くらいに着くとやったかな。そうそう、お嬢さんの方を旅館に迎えに行かんといけんとよ」

野人があっけらかんと伝えてきた時間に、二人とも血の気が引いた。もう11時を過ぎている。今すぐ、出た方が良い。間に合う時間ギリギリで伝えるつもりだったのだろうが、遥を外出させるためとするなら、小さな親切があまりにち心臓に悪すぎる。

「それで、旅館の料理人の人もきなっけんね。お客さんが来て、夕食ばいっしょにとっとっかもしれんげな」

さらに、客人が来るなんて心構えができていない。富居家の人は親しみやすいとは聞いているが、さすがに化粧して着替えなければならないだろう。

「かえるさん、送迎お願いしますね。私はどうすればいいか、ちょっと知り合いに電話して聞いてみます!」

「わかった。じいちゃん、ほら、帰るよ。ハルさんこれから忙しいから」

そうだ。ここに勤めて初めて忙しい日だ。雇い主にも初めて会う。二人を見送った遥は震えながら、富居家の母屋の重厚な扉の鍵穴に鍵を差し込んだ。

パニックや緊張というのは伝染するものだろうか。

「こんにちは。こちらの管理人として働かせていただいております。山脈といいいます」

玄関先で出迎えた遥に少しだけ笑顔を向けたのは、遥より少し若そうな30歳前後くらいの女性だった。「ああ、もうやだやだ」とぐちぐちと言って、バッグの水滴を払いながら、部屋に入ってきた。

「ごめんなさい。濡れたので、タオルを持ってきてもらえますか。それに、”かえる”さんも入ってきてください。この雨で山道を帰るのは危なすぎますから」

土足のリビングのソファに身体を投げ出すようにして座った香は、入り口に突っ立っていた蛙に向かって言った。
遥も視線を向けると、二人分の傘を手に持ったカエルが傘立てがどこにあるか分からず所在投げに立っていた。
びしょ濡れである。シャツが貼りついて肌が透けるほどだ。

雨が降り出していることは気づいていたが、傘立ては思いつかなかった。そして、遥は管理人で家政婦ではないので、この家のタオルの場所など分からない。とはいえ、疲れた様子の目の前のお嬢さんも遥がどういう立場の使用人か思いつかないようである。
とりあえず、どっかからタオルを見つけて持ってくるしかないと、遥は黙って足早にその場を離れた。

「すみません。飛行機が飛ばなくて、母が来られなくなったので、私も勝手がわからなくて。4月から、こっちの旅館で働き始めたばかりなんです」

富居家の次女・香は、タオルを受け取って、できるだけ濡れたところをふき取ると、ようやく冷静さを取り戻した。落ち着いて、遥のことを改めて聞いて、家政婦さんとして屋敷の中の細々としたことを預かっているわけではないと知って、自分の態度を反省したようだ。富居家のお嬢様の香が、居丈高な怖い人じゃなくて、遥もほっとした。

「私もそうなんです。慣れなくてすみません。タオルを探すのに時間がかかってしまって」

「いやあ、僕も4月からの移住組で、みんなそうなんて、奇遇ですね。よろしくお願いしまース」

大雨の音をかき消すように香の向かいに座るカエルが明るく声をかけたが、そのタイミングで稲光が走り、直後に雷の轟音が響いた。近くの木にでも落ちたかのような音だった。その後も何回も雷が鳴って、停電しかかるように電気が点滅した。

「どうしようかな。お客さんが来るんですけど、旅館の方が忙しそうで、板場の人を借りて来られなかったんです。夕方までに雨が止むっていうんですけど、断った方がいいのかな。私てっきり、こっちに誰か分かっている人がいると思ってたんです。私一人で話すなんて聞いてないし、夕食もどうしていいのか、断れば良いのか分からないんですよね」

「えーと」

香に助けを求めるように見られても、遥としてもどうしてよいか分からない。遥はこの山一帯の富居家の別荘の管理人であって、富居家の事業のことなど何も分からない。秘書などの仕事を経験したこともない。富居家のお嬢さんの香を目の前にしているだけで緊張しているのだ。

別荘に香着替えがなく、同じくぬれねずみになったカエルと、二人には遥の服を貸してきてもらっている。香は遥より背が高いが、ほっそりしているので、遥には少し大きめのワンピースを貸したら、問題なく切られてほっとした。立ち居振る舞いが違うのか、香が切ると少し上品な服に見えた。
そのワンピースが合わなければ、洗いざらしのシャツやよれたジャージを貸さなければならないところだった。
実際、遥のTシャツとなぜか紛れ込んで持っていた、父のジーパンを貸されたカエルは普通の格好のはずなのに、ちょっと草臥れて見えた。ちぐはぐに感じるのはいくら大きめでもシャツが女ものなのだろうか。
ジェンダーレスとかユニセックスとか言われる服は、男女どちらにも似合うようによく配慮して作られているのだな・・・と思考を脱線させている場合ではない。

「えーと、とりあえず、お腹すきませんか。じいちゃんが用意してくれた野菜があるので、借りて良ければ、僕が台所でないか作りますよ。学生時代に厨房でアルバイトしていたんで、ちょっと料理苦手ではないんですよ。それで、その間に訪問を断っていいかお母さんに確認して、先方にも今日来るか、電話してみたらどうですか。別の日にできるなら、それでよいし、話がすぐすむのなら、夕飯は雨を言い訳に帰りを早く促せばよいと思いますね」

黙り込む二人に助け舟を出してくれたのは、カエルだった。営業で培っているおかげか、明るく物慣れたしゃべりで雰囲気が和む。

「そうですね。そういえば、車に桃とお茶のパックがあるんですよ。お茶とお茶請けくらいなら、食べ物が何もなくてもどうにかなるかもしれませんね」

「じゃあ、それ、取ってきますよ」

カエルがちょっとだけ身震いして、すぐに立ち上がった。建付けのクーラーのスイッチの場所がわかったのは良かったが、冷房が効きすぎるようだ。吹き抜けの天井が高いので、加減が難しい。冷房を入れないなら入れないで蒸し暑かったので、遥は二人の了解をとってクーラーの電源を探して冷房をつけた。

「でも、濡れますよ。私は着替えがあるから良いですけど」

「まあ、もうどのみち一緒ですよ。お客さんが来て、このままの格好で出るのもちょっと恥ずかしいし、うちの迎えが間に合わないなら、乾燥が間に合うのを祈って、元の服に着替えたいですね。その時はアイロン貸してください」

カエルは自分の服装を見下ろしてちょっと苦笑すると、遥が何か言う前に外に出ていった。

「そうですね。母は私一人でも話くらい聞けるでしょうっていうんですけど、とりあえず、この雨だから、先方の霧山さんの都合を聞いてみます」

「ちょっと待ってください。霧山さんですか」

カエルの様子に勇気づけられて、木を取り直したようにスマホを取り出した香に遥はストップをかけた。

「はい。霧山さん、知ってますか。そっか、こちらでは有名な酒造メーカーですもんね」

「そうなんですけど、霧山さんなら、もしかして、高校の同級生かもしれません。弟も同級生だったような」

「そうなんですかあ。それなら、話しやすいですよね。助かります」

「いや、、、えーと、ただいるだけになるかもしれません。お話の内容も分かりませんし」

同級生だったが、一学年しかクラスが同じでなく、そんなに親しくはないと言おうとして遥はやめた。弟は高校の時友達だった気がするが、それはあまり役には立たないだろう。
それよりも、遥は、香の母の意図が分かってしまった。それを目の前の香が分かっているのか、いないのか。分かっていないなら、伝えた方が良いのだろうか。それとも、それは、香の母の意図を邪魔してしまうことになるのだろうか。
判断がつかず、遥は目の前で電話をかける香の姿を見ながら、できれば霧山が今日断って来ないことを祈った。

が、遥だけでなく香もそれを願っていただろうにも関わらず、雨ももうやみそうだからと霧山は譲らなかった。確かに雨脚は弱まっているが、すぐに止みそうではない。暗くなった山道は自信がないと、かえるの伯母も迎えをしぶっているくらいである。

「私の車で送っていきますよ」と言い出せないのが、遥もつらいところだ。
せいぜい、香の許可を得て、迎えが来なければ、空いているロッジに泊まってもらうことを提案したくらいである。
香は、母屋の客間を貸すと言ってくれたが、貴重な調度品がたくさんある別荘だ。客間の内装が高級ホテル並みであることをタオルを探しに行った時に、遥は知っていたが、カエルも想像がついたらしく、ロッジが良いと断った。

そんなことより、一番の問題は霧山の出迎えである。

遥はカエルが車に取りに行っている間にお湯を沸かし、カエルが戻ってくると、3人分のお茶を淹れた。たかだかティーパックと侮るなかれ。
ここに来て3か月、お茶だけは毎日淹れているから、ちょうどいい湯加減はわかっている。
お茶を容器に移す前に容器をお湯ですすいで温めるなんてことは初めてしたが、その甲斐あってか、自己満足か、常になく美味しい仕上がりで、一口含むと、湿気でべたついた身体に一服いっぷくの清涼感がもたらされた。
味は、無難にちまたで一番人気の梨の緑茶のフレーバーティーである。

三人が手に持ったカップから、立ち上る湯気がフルーツフレーバーティーの甘いお湯の香りで鼻腔をくすぐる。

遥が桃を切ろうかと申し出たが、カエルはお腹が空いたからすぐ料理をしたいと台所に行ってしまった。

「すみません、お茶の準備から食事までお願いしてしまって。言い訳になりますけど、霧山さんが来るなら資料に目を通しておきたくて。ここ数日、具合が悪くて、あまり目を通せていないんです」

「具合が悪いなら、横になっていなくていいんですか」

「大したことはないんです。ちょっとお腹が弱くて、ふらふらするときがあって。でも、いつものことですから」

香はそう言ってカバンからクリアファイルを取り出し、一つ一つ、紙に目を通し始めた。
せっかく切った桃に二人とも手を付けなかったので、遥は自分で一片だけ摘んだ。

しかし、すぐにファイルをめくる手を止めて、身体を深くソファに沈めた。

霧山は、地元ホテルだけで飲める新商品の酒の打ち合わせに来るらしい。それを山鳥が数年前に果実町の旅館を買い取って運営している「霧山乃里ホテル」で期間限定で売り出し、その後ネットで全国販売する計画ということだ。内容は固まっているのでと容器のラベルのデザインの最終的な相談をするということだ。

「話は固まっているから、私は頷くだけでいいんです。そもそも私なんて最近霧山乃里ホテルで働きだした下っ端の従業員ですよ。それだってパートだで、フリーターなんです。偉そうに意見言える身分じゃないし、資料見るだけ無駄なんだけど」

富居家の次女が体が弱いという噂はを遥は聞いていた。おそらく、そのために山鳥の重要な食で長時間働くことに香は自信がないのかもしれない。
田舎の空気が良いだろうと思って、本人の希望で移り住んできたらしい。

「贅沢ですよね。自然がいっぱいで、綺麗な場所で、のんびり暮らせて。できればずっとこっちにいたいなと思っているんです。特に結婚願望とかもないし。旅館の従業員さんたちもみんな親切でいい人ばかりなんですよ。連帯感があるっていうか。」

「山しかない場所ですけどね」

「そこがいいんじゃないですか!私、山登りとかしてみたいんですよね。いつか一緒に行きませんか」

したくなありません!とは答えられずに、「私、案内できるほど山に詳しくありませんよ」と曖昧に濁した。
身体の弱い人はかえって登山に憧れると聞くが、体力のない遥は登山など考えただけで怖気づいてしまう。
地元でもっとも登山で有名な霧ノ山の標高は1,400Mメートルほどあり、普段着では登れないそこそこ険しい山である。子どもの頃途中まで学校行事で登らされて、滑り落ちそうで怖かった。
田舎で育った人間であれば、誰でも山や自然に慣れていると思うの間違いだ。

遥が乗り気じゃないと分かってか、会話が途切れる。カップと皿は空になり、遥が午前中に摘んできてとりえず飾ったクチナシのの甘い香りが漂う。

資料が読み進まない香りは、トイレに席外し、戻ってきても具合が悪そうだったので、遥が寝室でしばらく横になるよう勧めると、申し訳ない態度をしながら、素直に従った。香は、疲れのためちょっとトイレでもどしていたのである。

香に結婚願望がないというのは、あまり健康でないのを気にしているのかもしれなかった。気さくな性格で、容姿も整っていて、家柄も良いのにもったいないと、遥は他人事ながら思う。

布団がちゃんとあるか気になり、寝室の場所に行くと、敷布団やかぶり布団が見つかってほっとした。それを香を手伝って準備すると、香はベッドの縁に腰かけてうなだれた。

「今日お客さん多いのに準備だけして抜けてきたんですよ。それで、この体力のなさは嫌になりますよね。最近はちょっと調子それでもいんですけど。まだなれないからストレスが溜まっているのかなあ」

「慣れない職場は疲れますよね。リラックスするのが一番じゃないですか。そうだアロマとか炊いてみません。私、最近ちょっと凝っているんです。市販品ですけど、ガーデニアっていい香りがして落ち着くんです。取ってきますね」

「なにからなにまで、すみません」

「いえいえ、私もここの従業員ですから、お互い様です。ちょっととってきますね」

雨は小降りになっていたので、カエルの買ってきていたビニール傘をちょっと拝借するとほとんど濡れなかった。

「ここのお庭のクチナシの花の香りがすごくいいから、買ったんですよ。ネットで調べたら香料をとるのは難しいって書いてあったので、わざわざアロマポットからいろいろ揃えて買ったんです。クチナシって別名ガーデニアっていうらしいですね」

アロマキャンドルはうすのように括れた形をしている。先にキャンドルに火を着けて、上から水と少量のアロマオイルを垂らした。
すぐにふわっと甘い良い香りが漂ってくる。お手頃値段の合成調合だが、始めた買ったこのアロマオイルを気に入って、遥は3日に一度は夜に火を灯していた。
キャンドルの小さなオレンジの火がなんとも温かい。
真っ白い陶器のアロマポットに三毛猫の柄が大きく一つだけ入っているのが気に入っていた。

「うわあ。本当にいい香りですね。ガーデニア。今度から使ってみようかな」

「おすすめですよ」

「ディフューザーばっかりだったので、ポットも良いですね」

「でしょう?私、こういう小物すきなんです。それじゃあ、私たちはご飯を軽く頂くことにして、降りて来られなかったら、1時間半後くらいに呼びにきますね」

「すみません。何から何まで」

「いえいえ、具合の割るときはお互い様ですよ」

香がアロマを気に入ってくれたことに気をよくし、遥は意気揚々としていた。

香の寝室を出た遥は台所のカエルの様子を覗いてみた。
手伝いを申し出ると、カエルは道具の場所が分からないと言って、ボウルや鍋などしばらく二人で探し回った。

「へえ、同級生が来るんだったら、話が早くてよかったじゃないか」

同じく同級生の気安さで、二人で台所に立つうちにすっかり口調が砕けたカエルは肩の荷が下りたようにあっけらかんと言った。他人に敬語を使わないなんて遥にとっては学生ブリ以来のことだったが、話題があったせいか案外自然に話せた。

「ちっともよくないよ。そんなに親しくないから、同級生とはいえ、霧山酒造のおぼっちゃまで雲の上の人って感じだもん。結婚してるか知らないけど、結婚してたら弟くんが来るのかなあ。居合わせるのが、気まずいなあ。でも、香さんを一人に相手させるのも気の毒かなあ」

フェンネルのフルコースを作ると意気込むカエルの隣で、遥は憂鬱に言葉を吐き出した。
簡単な仕事の打ち合わせであれば、オンラインでも良かったと思う。あいにくと雨でネットのつながりが悪かったが、わざわざ来るのは香と会っておきたいからではないのか。

学生に厨房を任せるイタリアンなんてどんな店だったのか。卒業後も店に残らないかと頼まれたというだけあって、カエルの包丁さばきは手馴れていた。
鍋でフェンネルを煮込んでいるだけの遥の方が、手つきに迷いがある。料理に手馴れていないせいばかりではない。

邸宅のキッチンは、設備は豪華だったが、冷蔵庫は空っぽだった。だがパスタやキノコなど乾物や缶詰や調味料や小麦粉はあった。さらに、遥が自分が住んでいるロッジの冷蔵庫から、ベーコンと鶏肉と持てるだけ食材を買い物袋に入れて持ってきたら、十分だと請け負った。
自信満々過ぎて不安になったが、料理する手つきを見たら安心した。
ネットで調べたというレシピで作っている鍋の中の未完成のフェンネルのポタージュはとても美味しそうな匂いがした。
フェンネルとジャガイモと牛乳と生クリームと塩コショウ
材料を考えるとシンプルで悪くない。
メインにフェンネルと鶏肉のパスタ、野菜のテリーヌ、デザートに桃のシャーベットと飲み物はこの町特産のフルーツフレーバーティーというのはこの上ない組み合わせだろう。高級レストランでは評価がどうか分からないが、一般のレストランらなメニューにあっておかしくない。

しかし、懸念を上げるとすれば、カエルの料理の腕前だけでなく、特産品のフルーツフレーバーティーを霧山が喜ぶのかということだ。

「別に仕事相手が結婚していようがいなかろうが関係ないんじゃないの」

料理に集中して聞こえていなかったのかと思ったが、遥の横からそろそろ出来上がりの鍋を持ち上げて、カエルは上機嫌に聞いた。
料理をするのが息抜きの人間だから、状況がどうでも、料理を作っているだけで楽しいのだ。
三食台所に立つほど料理好きではない遥は、カエルに言われた指示しかできない。
香も料理を手伝おうかと言ったが、濡れた上に冷房が悪かったのか、顔色が悪かったので、シャワーで温まってやはり一眠りするように遥が勧めた。
香のいないところで、自分の懸念をカエルに言ってしまいたかったのかもしれない。

「いやあ、多分、息子さん二人のうちどっちかは少なくとも独身だと思うんだよねえ。それで、この雨で来るってことは、やっぱり見合いのつもりじゃないのかなあって、霧山酒造の立場はこのフレーバーティーが流行ってから複雑らしいから。香さんは、見合いって分かってるのかなあ。分かってさなそうだなあ。それもと、私の考えすぎかなあ」

「つまり、どういうこと」

カエルに説明するというより、一人言のようになってしまったことに、遥はカエルに問われて気づいた。
果実町の住人には自明のことで、カエルが移住したばかりで詳しく説明しないと話が見えないという考えが抜け落ちていた。

「この果実町はね。10年前まで、何もない町だったの。霧山の酒造メーカーは焼酎で全国展開しているけど、焼酎がお酒の中で取り立てて大流行りしてるわけではないし。日本に4つしかない地名のブランド焼酎とはいえ、日本酒やワインに比べたらやっぱり安酒のイメージで、酎ハイの方が若者ウケはいいもんね。温泉は湧いているけど、観光地の魅力としてはありきたり。場所は盆地で辺鄙で交通の便が悪くて、九州の他の温泉地と比べても不利。寒暖の差を利用して、果物は美味しく作れるけど、これといってブランド化してない。山と酒と温泉と果物と観光地としては特徴がない取り柄のない町だなって、私も子供の頃から思ってた。それが、富居家が経営する飲料メーカーの山鳥さんが10年前にここでフルーツフレーバーティーを開発してから、この里はガラリと変わった。フルーツフレーバーティーの里になったのよ」

南九州の片田舎。1年の半分は霧で覆われ、登下校中梨畑のそばを通っても霧にかすんで白い小花は判然としなかった。
けれども、今は、フルーツの里で、フルーツフレーバーティーの香りが朝霧にけぶる果実町。
その大ヒットのおかげで交通の便の悪いこの町にもテレビの取材が頻繁に来るようになって、遠方からフルーツフレーバーティーの原料の果物の聖地巡りに自分たちで来るお客さんもいる。最初は自分で調べてくる人ばかりだったが、昨年から果樹園を回るコースまでできた。
果実町への恩恵は、フルーツフレーバーティーの売り上げとそのちょっとした観光ブームだけではない。
山鳥からお茶の売り上げの一部が給食費として寄付されており、私立の学校はないので、小学校中学校も、給食費は全部無料。
さらに子どもたちには、1日200円の飲料費が支給されている。
学校に自販機があり、500mlまで1本無料。
また、山鳥からはその飲料の売り上げの一部が寄付され、町の図書館には毎月希望の本10冊が届けられる。
町の人は投書で、好きな本を希望できた。
車椅子は100台貸し出し無料。
山鳥の工場の従業員の送迎するためのバスもあり、それは1時間に1本動く町のコミュニティバスになっている。街の中の30キロ圏内どこの停留所まででも100円で乗れる。

年寄りと子どもに親切な町になったのは、すべて山鳥の発想の賜物だ。
フルーツフレーバーティーは、大雨で傷んだ果物の実や皮を乾燥させて作れないかと、富居家の社長が災害のニュースを見て思いつき、果実町ではじめたら大当たりした。
イイこと尽くしのようだが、その山鳥の手腕には町では反発が出ていた。
フルーツフレーバーティーは若者に特に人気で、そのおかげでかえるのような比較的若い人もぽつぽつと移住してくるようになった。
しかし、町の町議会議員は高齢者が多い。
田舎は、狭いコミュニティで完結している。よそ者に警戒心を抱いている。見知らぬ他人の観光客大変親切だが、移住者になるとなかなか警戒心を解かないという表に出にくい良くない一面もあった。

富居家のおかげで町は明るく色づいた。
山鳥では様々な飲料水を売り出している。ウイスキーが特に有名で、果実超ではここ10年様々は公共の場所にウイスキーの樽が大きな花の鉢植えとして飾られていた。
しかし、こころは元は焼酎の里でもある。最近では、山鳥に対抗してか焼酎樽はハーブの付け樽として霧山酒造で使用しているようだ。霧山のバジルソースは美味しいと最近よく聞くようになっている。

「そういう戦いなら平和でいいじゃん。霧山のバジルソースは美味しいからよく買うよ。」

「それだけですめばいいんだけどね。」

遥は玉ねぎのように膨らんだフェンネルが目に沁みないことに感動して刻みながら、うーんとちょっとだけ口を歪めた。

フルーツフレーバーティーという発想は今までどこにもなかったわけではない。しかし、山鳥が素晴らしかったのは、無駄のないその生産システムだ。

山鳥はフルーツフレーバーティーのために果実町産の果物にこだわり、果樹農家を囲い込んだ。
傷んだ果物はお茶に、傷がないものはそのまま出荷できる果樹農家は、自立した事業主になり、農協に入らなくなった。
今は買い取とった自然公園のキャンプ場をどうにか再三がとれるものにしようとしている。
山鳥の社長は60台後半であるが、そ年でまだまだ積極的に事業活動を行っている。
富豪家のおかげで町に雇用が生まれ、住みやすくなった。
しかし、次々と組合員の抜けている農協は面白くない。
農協は郡部の山鳥から酒造組合に引き取らせてなんとかフルーツフレーバー事業を行いたいらしいという噂が街には誠しやかに流れている。
加工工場は果実町にあるとはいえ、すでにフルーツフレーバーティーの事業に参加する農家近隣の市町村にも増えている。
農家としてはフルーツフレーバーティーを地元だけでやってうまくいく保証もないから及び腰だ。しかし、酒造会社としては、事業を引き継ぎ、山鳥の関連会社化するのは、魅力がある。
あまり多くはないが、今果実町とその周辺には地元で事業を丸抱えしたいという一派ができつつあった。
農協と酒造組合の圧力に頭を痛めている町長は、何とか町の有力者の力を取り除き、焼酎vs紅茶の対決を終結させて引退したがっているという話だ。
それも山鳥に事業を続けてもらいたい周囲の議員さんが必死に引き止めているらしい。山鳥の事業提案にすぐさま乗っかった町長が町の人の反発を治めるべきだと思われているのである。

「もしかして、今朝会ったおばさんは、農協の人か何かで富居家をよく思っていないってこと」

駅で話しかけられたおばさんのことをカエルは思いだした。

「旦那さんがね。たぶん、もう定年してると思うけど。でも、私も町の人の思いとかよく知らん。お茶で街が潤ったならいいじゃんとしか思わないけどなあ。でも、そうとばかり思わない人がいるなら、なんらかの落としどころを探ってるのかも」

「それじゃあ、霧山の息子が香さんに会いにくるのは政略結婚ってこと?」

「自然に出会ってお互い気に入れば、まあそうとも言えないのかな。でも、香さんがわかってないみたいなのがなあ。出会いを画策されちゃっているのが複雑というか。酒造組合と仲良くなってはいけないというわけじゃないし。事業を引き継がなくでも、そう悪くない組み合わせの縁談なのかもしれない。本人たちがその気になればあわよくばって感じなのかなあ」

すくなくとも富豪家の社長夫妻は、あわよくばと思っているのではないか。
富居家に事業から手を引いてほしくないと思っているのは町の一部の人間の願いだ。町の恩人である方の富居家が譲歩する必要があるのは、分からない。しかし、親戚になれば、酒造組合に引き継いで必ず転ぶとも言えないし、遥がわざわざ正義感を発揮して、「町の農協組の反発のために見合いなんてしなくていいですよ!」と富居家がそれでいいなら部外者としては口出しするようなことなのか。

でも、なんだかもやもやする。

いわゆる敵対勢力の政略結婚だが、田舎暮らしに憧れる香は、地元の人間たちのそんな思惑には気づいていなくて、純粋にこの町を気に入ってずっと住みたいとまで言ってくれているのだ。
それに、周囲の余計な思惑が入るのは、かわいそうだという気もしないでもない。もちろん、この時代、本人の意思が尊重されるのだろうけど。

「香さんは霧山家に入ったら、親せきになるもんな。関連会社化したようなもんで、穏便な解決策かもしれない。だけど、それはだけで、地元の果樹農家が農協に戻るとも思えないけど。結局自立できてうまくいくなら」

農協に諦めてもらうか、農家に戻ってもらうか、穏便な方法で解決の橋渡し役になれるのは誰なのだろうか。何も知らないで嫁いで、香が矢面に立たされたら気の毒という気がする。

「まあ、決まった話ではないんだから、部外者は成り行きを見守ろうよ。それより、お腹もすいたし、香さんを呼んできたら?車の中で朝から何も食べてないって言ってたから、スープだけでも飲んだ方がいいと思うよ。もう5時だし、そろそろ先方さんが着く前に」

「そうね。呼んでくる」

出来上がった皿た料理はおいしそうに湯気を立てている。これは、もう、お客様に出せる見栄えと匂いだった。

呼ばれて降りてきた香は、寝る前よりすっきりした顔をしていた。

「アロマのおかげですごくリラックスしてよく寝られたので下に持ってきちゃいました。良かったですか?」

「いいですよ。そうだ、きょう摘んだクチナシも花瓶に入れたり水盆に入れて、テーブルの真ん中に飾りましょうか。カエルくん、とっても料理上手なんですよ。プロ顔負け。お客さんに出してもばっちりだから、スープだけその前に飲んじゃってください」

「おいしそうないい匂いがしてますね。そうだ、申し訳ないんですけど、このアロマちょっとまた使ってもいいですか?体につけてみたくて。ちゃんと後日買ってお返ししますから」

「いいですよ。保湿効果もあるみたいなんです。それにちょっと使うぐらいなら、大丈夫です。そんな高いブランドのやつとかじゃないですから」

「ありがとうございます」

香は嬉しそうに手の甲に落として、慣れた手つきで塗り込めた。
身だしなみを気にするのは、もしかして、お見合いとわかっているから?と一瞬気になったが、変な邪推はしまいと自分の中で打ち消した。
打合せにあまり慣れていないようだし、単に重要な仕事を一人で任されたことにプレッシャーを感じているだけかもしれない。

「うわあ、きれいな料理ですね。フェンネルの香りがいい」

テーブルに並べられた料理を見て香は感嘆の声を上げた。
フェンネルのポタージュ、タコと豆と朝どれ野菜のマリネ、野菜のテリーヌ、フェンネルと鶏肉のパスタ。桃のデザートだけまだ冷蔵庫で冷やしていた。
どれも美味しそうで、まだ桃一切れしかつまんでいない遥もお腹が鳴ってしまいそうだった。

ピンポーン。

その時、玄関の呼び鈴が鳴った。

「すみません。遅くなりました。霧山です」

玄関口で挨拶した霧山は、遥の記憶にたがわず、折り目正しかった。

「いえいえ、実はちょうどいいタイミングだったんですよ。霧山さん、覚えているかな。高校の同級生だった山脈です」

来たのは、遥の同級生の兄のほうだった。記憶になかったらとドキドキしたが、玄関で出迎えた遥を見て、霧山はすぐに思い出してくれた。

「ああ、ハルさんやん。覚えとるよ。こっちにおったんだね。懐かしかねえ」
「うん、富居さんところで働いとる。じゃあ、中へ、どうぞ、実は今日ちょっとみんなバタバタしていて、香さんから打合せがあるのは聞いとるけど、先に夕食をとってもらえたらなと思っとると」

遥が懐かしいクラスメイトの前でつい砕けた方言で促すと、霧山は人好きのする笑みを浮かべてテーブルの席についた。多少雨に濡れていたが、今回は傘立てもタオルもばっちり準備できていて、床にしずくをしとらせるようなことはさせなかった。大切にしよう、重要文化財の床である。

「うわあ。ちょうどよかった。じつは、僕も昼ご飯を食べそこなったんですよ。イタリアンかな?料理人の人が作ったんですか?」

「いやいや、霧山君。この料理は、最近こっちに移住してきた井中さんのお孫さんが作ったのよ。厨房のアルバイト経験があるらしくて、玄人顔負け」

「井中かわずです。みなさんにカエルと呼ばれてます。まだこっちのことよく知らないので、機会があればいろいろ教えてください」

「いやいや、同級生やろ。そんな固くならなくていいよ。それなら、遠慮なく食べようかな。打合せはそのあとで良いですか」

「いいですよ」

香が快く応じて、美味しい料理で和やかな夕食会が始まった。

「でも、久しぶりに見ましたけど、夜でもわかるくらい建物もここの庭は綺麗ですよね。さすが井中さんだなあと感動しました」

「薔薇のアーチが良かったですよね」「クチナシの甘い香りがしませんでした?」
カエルと遥の声が重なり、ちょっと沈黙が落ちて、そしてみんなで笑った。
「カエルくんが薔薇推しで、ハルさんはクチナシかあ。ハルさん神社仏閣巡りとか好きそうだもんな」
それは地味なイメージだということだろう。あまり誉め言葉ではないが、実際その通りなので、遥も大人気なく反論はしなかった。
「イングリッシュガーデンと和風庭園なら、霧山くんはどっちが良いと思う」
「イングリッシュガーデンかな。日本のものは見慣れている」
霧山が間髪入れずに答えたので、遥はちょっと機嫌を損ねた。
見慣れているかっらこそ、比べて良さがわかるのではないか。
「香さんはどちらが好きですか」
「え?」
ご飯をぱくぱく食べていた香はちょっとむせて、息を整えた。そして、しばし考える顔をして、「ここの庭ならやっぱり薔薇とかハーブとかが目にはいっちゃうかな」と答えた。しかし、けど、と付け加えた。
「薔薇とこの花瓶に生けてあるクチナシなら、私はクチナシですね。クチナシって香料になるんですよ。薔薇もなるけど、クチナシは今日つけてみて気に入りました。良い香りで落ち着くんです。でも、ハーブとかは料理に使えるから難しいですね。このフェンネルのポタージュも良い香りで本当に美味しいです」
「いやあ、僕もネットで調べて初めて作ったんですけど、会心の出来でした。おいしいですよね。フェンネルにハマりそうです」
「そうですか。じゃあ、ガーデニングとかされたらどうですか。ハーブは結構簡単に育てられるといいますよ。じつは、山鳥さんのレンタルガーデン事業にうちも参画しようとしているんです。俺も実験に始めるつもりなんで、井中さんもハルさんもどうですか」
「いやあ、私は植物はすぐ枯らすから自信がないなあ」
遥の腰が引けると、はい!とカエルが元気よく手をあげた。
「それなら、うちのじいちゃんが教えてくれると思います。じいちゃんがよそからキャンプ場の土地でガーデニングをする事業にはガーデニングを教える人材を育てなきゃならんよなあって言ってたんです。じいちゃんが一人でするには、もう年だし、喜んで教えてくれるだろうから、大丈夫です」

(前のめり、すごく前のめりだ)
ここまでやる気を見せられると、かたくなな拒絶はしがたい雰囲気が出来上がってしまう。
「面白いですね。いきなり登山はきついけど、ガーデニングなら私もできそう。それに、この綺麗な庭を造っている井中さんに教えていただけるなんて最高の機会ですよね」
香もとても乗り気である。
かくして、霧山が来るまではあんなにバタバタして陰鬱した雰囲気が、花と美味しい料理で吹き飛び、話しが進んで大きくなり、山鳥の会社の保養地のキャンプロッジにレンタルガーデンを開設するプランの実験を霧山たちと香と一緒にやる約束が取付られてしまった。

「よかった、これで、なにか果実町の人間になれた!って感じます」
「俺も」
都会から来た二人は意気揚々としている。しかし、遥は断れなくて憂鬱だ。
「本当によかったよ。こっちの郡部内にあるバンジーを飛ばないと、移住者は土地の者と認められないと勤務先の不動産会社で言われてたんだ。俺、やってはみたいけど、まだちょっと怖くて、決心がつかなくて。田舎に溶け込むには、やはり、勇気が必要なのかと思ってたんだけど」
「それは、絶対からかわれてる。私もバンジージャンプは飛んだことがありません!バンジーなんて絶対やらん」
遥が思わず強い口調で言うと、食べ終わった3人は面食らった顔をしたもののすぐに笑い出した。
「いやあ、やっぱ、ハルさん学生の時から変わってたけど、あいかわらずだね」
「ほんと、ハルさん。いいわあ。話しやすくて、面白くて」
「そんなこと全くないです。私は生きてられたらそれで満足な人間なので」
社交性が高いのはカエルのような人物だ。
学生の時から変わっていると言われることはあったが、それを誉め言葉だと思ったことは一度もない。
そして、学生の頃から内向的な人間であるにもかかわらず、どうして、こういう社会性お化けみたいな、社交性の高い人たちに交わってしまうのだろうか。

住む世界の違う人たちと明日から、草むしりか。
ちょっと異様な光景ではなかろうか。
子供の時、美化作業のたびに思ってきたことだ。
ガーデニングが全く楽しみでないわけではないが、他人とやると休めないのが面倒だ。
ご飯は食べるのは楽しいけど、片付けが時に億劫なのと同じである。

食事会が終わり、打合せも無事に済み、霧山を見送って、食器洗いを申し出た遥は、食器を洗いながら、明日からのことを思い、ため息が出た。


フェンネルは、消化を助け、胃腸に溜まったガスを除きます。 消化不良や便秘、お腹が張っているときなどに効果的といわれています。 また、利尿・発汗作用があり、古来よりダイエットに効果のあるハーブとして使用されてきました。 利尿作用により体のむくみを和らげ、手足の浮腫を取り除きます。
利用法:フェンネルのポタージュ

クチナシは、心を落ち着けてくれる香りで、そのためリラックス効果が期待できます。乾燥からお肌を守る保湿効果、消炎作用や鎮痛・鎮静作用のも効果があります。色素成分の1つ「クロセチン」が、目の毛様体筋に直接働きかけ目の疲れを緩和します。クチナシから香料を抽出することはかなり難しく、一般的には調合品が使われている。
利用法:アロマオイル

花言葉に添えて

クチナシ:「わたしは幸せ者です」
フェンネル:「称賛に値する」

日々みなさんのnoteから刺激をもらっています。noteでの交流を通して、鬱蒼として虫だらけだった我が家の庭に興味が持てるようになりました。ハーブを使ったお料理や家庭菜園の記事を見るようになって、1年近く。ようやく、庭に何を植えようかと考えて楽しめるようにもなりました。

依然として、庭作業は億劫で文章力が向上しませんが、雨期にありがちな日々生きること、雨上がりの庭を見て憂鬱になるような気持ちは薄まりました。
話に出てきた、フェンネルとガーデニアは間近に見たことがありません。もちろん、フェンネルを食べたことはなく、アロマオイルを使う習慣もありません。
あくまで私の理想と憧れを詰め込んだ話とご理解ください。

それでは、日頃のみなさまへの感謝を込めて。

#創作 #小説 #ガーデニング #薬草

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