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掴むなら藁じゃなく

10年前、私は失業していて、新しい仕事に就けず生活が困窮していました。でもイエス・キリストを自分の救い主として受け入れて、というか、イエス様しかもうこの世にすがれるものがなかったので、最後の頼みの綱と、本当に藁にもすがる思いですがりついて、そして仕事が与えられ、生活のあらゆる面でどん底を突いていた最悪の状態からも救い出していただきました。

10年前というとちょうどリーマンショックの後ですが、私の場合はそれが失業の直接的な原因でもありませんでした。私は中学生の頃から生きづらさがあり、自殺願望を抱えつつ48歳までそれでも生きてきてしまったのですが、やっぱり辛くて、生きている意味も目的もわからず、それを探し求めてありとあらゆるスピリチャルと言われるものを試し、時間もエネルギーもお金も費やし、人生はますますすり減り、とうとう減るものが何もないほどに追い詰められてしまいました。

自分一人だったら死んで楽になりたかったところですが、一人娘のことを思うと残していくこともできず、誰も助けを求めるような頼るあてもなくて文字通りの八方塞がり。そんな時に聖書のマタイによる福音書11章28節に出会いました。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

これだ、と思いました。「イエス様に重荷を丸投げして休ませてもらう」と本気で考えました。それでダメなら今度こそ私の人生もお終い、と決めていました。人生の半分以上を生きるのが辛いと思いながら生きてきたので、身も心もボロボロに疲れ果てていました。

でも、イエス様を自分の救い主と受け入れると決心した途端に、まず経済の破綻を解決するための方法が示されました。また最低必要な当座に必要なお金を家族から借りることができました。仕事も与えられました。

仕事はこの10年で数回変わりました。それは私が期待するような、専門性を発揮できて処遇もそこそこでちょっと余裕のある暮らしに戻れる、職場環境にも恵まれた仕事、ではありませんでした。

イエス様は私を二度と困窮させないために、私を訓練する、はっきり言うと、叩き直す必要がありました。私の高慢さやお金の管理のずさんさを改めさせるために、厳しい環境に放り込まれました。高慢さを正すには、高慢になる隙もないような、ひたすらへりくだるよりほかにない立場に置かれ、お金の管理を一から見直すために、食べるのにギリギリの生活を何年もさせられました。なので、正直言って、当初の期待のように「休ませてあげます」と言われたのと話が違うじゃん?!という思いはいつもあり、何年たってもやっぱりしんどくて、救われたという実感はありませんでした。

とはいいつつも、しばらく離れていた社員研修の仕事に戻り新たな経験を積ませていただいたり、仕事を通して英語力向上の機会も得て、いい出会いもあり、結果的には仕事の中身もたくさん祝福を得てきました…。

それでも、辛さが勝っていましたが、なぜ信仰生活を続けてきたのか? というと、聖書を学び始めてすぐにわかったのです。それまでの自分の生活がことごとく聖書に反していた、ということが。聖書は言ってみれば良く生きるための生活の指南書です。散々、聖書に反する生活を重ねてきたからあんなにどん底まで落ちたんだ、という点はとても納得がいったので、それなら聖書の言葉に、イエス様の教えに従う生活に180度方向転換したら、どんな違いがあるのか、それを自分で経験したいという思いに支えられて、違いを見るまでは途中ではやめられない、と続けてきて現在に至ります…。

イエス様の教えに従うには、イエス様が何をおっしゃっているのか理解することが必要です。特に最初の数年は、聖書の文字面だけを自分勝手に解釈したり、自分の好き嫌いで、従ったりスルーしたりとムラがあったりで、それが辛さを継続させていました。プライドとか反抗心とか、なかなか捨てきれませんでした、今でもそこは格闘中ですが…。

そういうわけで、自分の未熟さを棚に上げて、全然楽にならないと嘆いてはイエス様に「救ってくださったのになんで?!」と恨みつらみをぶつけましたが、イエス様は忍耐深く慈悲深く約束を守られる誠実なお方で、また私のような者でも決して見捨てないし諦めないでいてくださるので、しんどい中でも少しずつ従うとはどういうことかを学び実行するように努める中で、暮らし向きが徐々に良くなり、住む部屋のグレードも上がり(10年で4回引っ越ししましたが)何よりも、あんなに生きづらくて抜け出せなかった自殺願望や自分を疎ましく嫌う気持ちから解放されています。

いろいろなことに依存症的にはまったり、熱中しても決して得られることのなかった“心の平安”が今はあります。今年の1月に会社を退職し、独立して仕事をしようというタイミングで現在進行中のコロナウィルスのパンデミックに遭遇。普通に考えたら、またどん底の心境に落ちてもおかしくありません。でも、不思議なくらいに平安があります。

それはこの10年で、イエス様がどれだけのことを、仕事や住まいや経済のこと以外にも、自分に、また家族や周りの人にしてきてくださったのかを見て体験しているから、イエス様は目には見えないし手で触れることもできないけれどでも確かに今生きて私のために働いてくださっていると確信しているからです。またイエス・キリストが自分の罪を贖うために十字架に掛かって死んでくださり、黄泉にくだり、三日後に蘇り今は天の神様の右の座についていらっしゃる、この救いを自分のものとして信じる者には永遠のいのちが約束されています。この世の人生は長寿になったといってもせいぜい100年ですが、その後にイエス様とずっと一緒の永遠の命がある、という約束を信じるなら、死生観もおのずと変わります。

以上は、私がイエス様を信じて経験してきたことのごく一部です。人にはそれぞれ創造主の神様のご計画があり、その全貌や意図は人の知りえないところです。ただ、私はほんとうに辛かったどん底から救われました。誰でも自分でイエス様の救いを求めて受け入れるなら、その選択をするなら、それを受け取ることができます。

世界も日本もますます生きづらくなり、実際に生活の困窮に直面している方も大勢いらっしゃる中で、ひとりでも多くの人が、イエス様に祈り求めて救いを受け取って欲しいと切に願い、祈ります。その場で、心の中で、または声に出して、イエス様!と自分の窮状を洗いざらい並べて訴えて聞いていただいて、そして助けてください、とお祈りしてください。一緒に祈りましょう。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
マタイによる福音書11章28節

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※イラストは、ga9jiさんの写真をお借りしました。海の色と波紋の文様が絶妙に素敵。ここを切り取れるセンスって! ありがとうございます。

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