MyStory~社交ダンスとの出会い、パートナーとの巡り会い

あと2年で社交ダンス歴30年!そしてアラフィフになっても現役の競技選手を続けている。あっという間とは思わないけれど、長いとも思わない。コツコツと積み重ねてきて振り返ったらそんなことになっていたかんじ。

プロの競技選手として活動し始め、現在のパートナーとダンススタジオをオープンしたのが2005年。社交ダンス歴の半分以上がパートナーと「岸田ダンスアカデミー」と過ごしてきたわけだ。そして特にここ5年ほどは、更にいろんな経験をしている。

私のダンス人生を勝手に3部に分けるとしたら、前期は波乱万丈な漂流時代・中期は発展と安定の時代・そして後期はいろんな挑戦をしている時代、こんなかんじだろうか。

これからこれを3部作のお話として書いてみようと思う。

第1部 ダンスとの出会いとパートナー漂流時代

ということで、第1部目は社交ダンスとの出会いから現在のパートナーと出会うまでを書いてみることにする。

ダンスとの出会い

ダンスとの出会いは大学入学してすぐ。体育会系の競技ダンス部の新勧ダンスパーティーに興味本位に参加したのがきっかけ。
教えてもらったステップですぐに踊れるのが楽しかったし、上級生のデモンストレーションがとてもカッコよかった。

もともとダンスはやってみたかったものの、なんとなく気恥ずかしくて。バレエとかは可愛い女の子がやるもの!私は体育会系!と思ってたし。あっ、ピアノは習わせてもらってたか。
中学時代はバレーボール部でしたね。それでも高校時代、体育祭では応援団としてチアをやり、文化祭では宝塚版「二都物語」の劇で槍を持ってソロで踊るなど(笑)、ダンスにちょっとずつ擦り寄っていってたようだ。

だけど、何故に社交ダンス?
社交ダンスって年配の人がやるもんでしょ~というイメージを覆したキッカケは実は入学前のある日の出来事からだった。
浪人を経て第一希望の一橋大学に合格が決まって、の~んびりテレビを見ていたその時。その当時のラテン世界チャンピオン、ドニー&ゲイナーのデモンストレーションが画面からドドド~ん!と迫ってきた。これが社交ダンスなの?すごい動きだなぁ~カッコイイじゃん!

ということで、入学前に社交ダンスへの偏見がなくなり、雰囲気も良かったから体育会系の競技ダンス部に入部。これが私のダンス人生のはじまり。
ほどなくダンスの練習に明け暮れる毎日。大学に入った当初の目的はどこへやらである。
そもそも一橋を選んだのは国立大学で学費が安く社会学部があったから。小さい頃「なるほど!ザ・ワールド」や「世界ふしぎ発見!」のレポーターにあこがれていた私は、いろんなところを飛び回るようなジャーナリストを志望してたのだ。
国際社会学のゼミの勉強は世界の様々な切り口を教えてくれてとても面白かったが、ゼミの教授に納涼会で言われたとおり「岡田さんはダンスの人ですね」だった。

何がそんなにも魅力だったのか?

・スポーツであり、芸術である。
・競技で仲間と切磋琢磨するところ。
・音楽に合わせて身体を動かすのが楽しいし、かなりハード。
・二人で踊るのは見た目以上に難しい。
・相手と噛み合った時にできる事が1人でできることの範疇を思いっきり越えていて楽しい。
・男女で踊るというドラマ性やスト-リー性。エレガントさとセクシーを同時に追及するダンスってゾクゾクする。

社交ダンスは歩くダンスとも言われているのだが、その歩き方がとっても奥が深い。上辺だけでなく身体全体が連動するところを自分で探していくという、自分の身体のナカを見つめていく作業が楽しいというのだから、おそらくオタク気質に合っていたのだろう(笑)
そして真面目で素朴な一橋女子が「女豹」に変身できちゃうラテン。このギャップがたまらん。

とはいえ、私は競技会でパフォーマンスするのがあまり好きじゃなかった。練習は好きだけど、本番は「見ないで~」っていう気持ちもあった。2年生の頃からレギュラーとして選抜され、課題をこなせないうちにすぐ次の競技会がやってくる。不完全な自分をさらけ出すのが嫌だったのかもしれない。良い成績をとろうがその恥ずかしさは消えなかった。そんなんでよくダンス続けてたね。

ターニングポイントとなったのは4年生のとき。人前で踊ることがやっと楽しくなった。
当初のジャーナリスト志望はどこへやら、とりあえず無難に就職活動を。自己PRを考えるうちに改めてダンスについて見つめなおしたこと、練習時間が少なくなった事でより集中して自立したことで、かえってダンスのパフォーマンス力があがった。ダンスの先生からゼッタイ自分では選ばない大胆な衣装を譲り受けたのも変身を手助けした。パートナーシップはプライベートでのお付き合いを辞めたことでかえってよくなったのかもしれない。
できない事に目を向けなくなり、自分に集中するようになったこと。自分の範疇を越えたドレスを着たことでギアが数段あがったこと。そのおかげで競技会で味わったいわゆる「ゾーン」体験は今も忘れられない。
熱を帯びているのに冷静、冷静に自分の身体だけでなく周りの空気も支配できてしまうかんじ、獲物を狙っているけど冷静に360度が見えいている野生のような研ぎ澄まされた感覚。自分でもゾクゾクした。
関東では優勝。全日本戦で準優勝。たまたまかもしれないけれど、ダンスを大学4年間で終わらす気持ちがなくなった。

プロになりたい

銀行の総合職として就職。そして部活を終えたと同時に活躍していた他大学の先輩からパートナーシップを組みたいと声がかかり、アマチュアの世界でダンスを始めた。
平日は銀行で働き、週末に練習&競技会。
仕事はお金を預かる緊張感のある仕事だけにやりがいがあったし、職場の上司には可愛がられたと思う。試験勉強もしたし、論文も書いた。仕事は楽しかった。
ダンスは環境が良かった。意識の高いアマチュアファイナリストの先輩たちとの練習は学生時代よりも更に刺激的だった。プロとかアマとか、関係ないよな~アマチュアでも十分ダンスを探求できる!と感じていた。

そんな暑い夏の日。
とあるショー形式の社交ダンスのパフォーマンスのビデオを1人家で見ていた。昼間でカーテンを閉めて真っ暗にして臨場感タップリに。
これまでも何度も見ているのに、ビベケ・トフトというダンサーの美しくてセクシーなパフォーマンスになぜか涙が止まらなかった。
そして驚いたことに・・・私もあんな風にスポットライトを浴びて人を感動させるようなダンスショーを自分もしたい!プロだからこそできる経験をしたい!とモーレツに感じた。(25年ほど前の社交ダンス界だからかもしれない。今だったらどうだったのかわからない)

いろいろ悩んだけれど、その年の年末に銀行を辞めた。楽しい職場だったけどこうなっていきたい!という未来予想図が特に浮かばなかったのもあるかもしれない。
当然上司からは猛反対をされたが、自分の気持ちは決まっていたのでありがたく受け流した。大学まで出してもらった両親に意を決して打ち明けたとき、「やっぱり」と反対すらされなかった。同居していて、どれだけダンスに打ち込んできたのかを側で見て感じてくれていたことに感謝する。

漂流時代、そして

さて。プロダンサーとして歩むことにした私。
7年間で5人のパートナーと巡り合い、そして最後の今のパートナーと出会った。
・・・そう書くと素敵だが、振り返ると「漂流」という言葉がぴったり。その一つ一つの時期を全力でぶち当たってきたつもりだけど、どこか定まらず欠けていたものがあった。

まず、プロダンサーの出発は神戸。それまで東京で親元でぬくぬく暮らしていた人間が神戸で1人暮らし、しかも阪神淡路大震災から1年後。つてがあって選んだこの場所、不安がなかったわけじゃないけどこれだけの変化をするのにちょうど良いと思ったからだ。
バイトをしながらプロダンサー。バイトはダンスに支障がなくて生活費+レッスン代を稼げれば何でも良かった。バイトの面接では「一橋大卒→銀行総合職→バイト探し」で100%驚かれる。ダンスを選んだ話をすると「でも、もったいないですねぇ」と言われる。さもありなん。私にとってはもったいなくもなんでもないけど、世間一般の評価はそうだった。それだけキャッチーだったので、面接に行った仕事よりも条件の良いものを紹介していただけた。芸は身を助けるではなく「学歴・経歴は身を助ける」である。大きなホテルのフロント裏で予約係として定時で働いた。

そうまでしたのだが、結局一年で東京に帰ってきた。
東京に帰ってきて親元でプロダンサーとしての活動を再開。神戸時代と同じようにダンス講師と弁護士事務所のバイトをしながら。
もともとの活動拠点でありダンス人口も多い東京はやはり刺激的だ。パートナーを見つけやすい。ちなみに、社交ダンスでは次のパートナーを見つけるためにお見合い(社交ダンスのマッチング・トライアウトをこう呼ぶ)をする。そうして私はパートナーシップを組んでいくわけだが、2人目・3人目のパートナーは途中でダンスを辞めてしまったし、4人目・5人目は既婚者だった。
ずっと、ビジネスパートナーとしてのパートナーシップだった。ビジネスの方が公私混同せずにダンスに集中できると思ってたし、自分を磨いていける最良の方法だと信じていたから。結果もそれなりに出ていたからそのやり方を疑いもしなかった。

実際、競技会やショーなどでいろんな体験をした。
・岡山のテレビ局が入ったところでショーダンスを披露した
・600名以上のホテルのディナーパーティーでショーをした
・日本武道館で行われた新人戦で優勝しオナーダンスを踊った
・海外へ競技会遠征をした
・海外ヘ短期留学をした
・各地に呼んでいただきデモンストレーションをさせていただいた
・リサイタルでゲストダンサーをさせていただいた

だけど5人目のパートナーと解消を考えたあたりから正直焦った。
なぜ私はペアダンスを続けていけないのだろう?
もうすぐ32歳。競技選手としての余命もそう長くはない。

そこでやっと気づく。
ペアダンスは1人では踊れないということに。
今まで私はパートナーを条件で選びその人そのものを見てなかったのだと。
自分自身をいくら磨いたところで、一緒にダンスを作っていく人がいないと踊れない。自分をどう魅せたいのかは考えても、どんなペアダンスを踊りたいのかについてはイメージが薄っぺらすぎた。
誰と踊ろうが関係ない・・・そんなペアダンス、はっきり言って今の私だったら見たくない。
1人で踊れるフラメンコやジャズダンスも楽しかったがやはりペアダンス。二人だからできるバランス・スピード・大きさ・迫力、男女だからできるドラマ性・ストーリー性、これが私にとって大切だったのだ。
そして、立ち止まって考える時間は、ときには必要なのだと知った。表面上はポジティブに動き回っていても、違和感にフタをし続けていたら根っこは何も解決しない。

立ち止まって考えたらボロボロ涙が出てきた。自分が痛すぎて情けなかった。今までのことは自業自得だ。
本当はどうなりたいの?本当はどうしたいの?

だから私は過去の成功体験を捨てることにした。そして、
「長く一緒にダンスを作っていける人と踊っていきたい」と心から願った。

そうしてめぐりあったのが今のパートナー。
彼とお見合いしたときに、他にも話があってお見合いはした。
彼は、はっきり言って練習環境や年齢という条件は良くなかった。以前の私だったら選ばなかっただろう(笑)
でも、一緒に踊ってみた時の空気感・話しているときの居心地がすごく良かった。目に見えない曖昧なもの、条件ではなく自分の心の直感で決めた。
そして今に続く。「良かったねぇ」とその時の私に声をかけてあげたい。

さぁ~これでメデタシメデタシ・・・と簡単にはならないわけで。
漂流して辿り着いた場所にはどんなことが待っていたのか。

ストーリーは次に続く。。。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?