見出し画像

「しょうがない」と呟くことのススメ -自分の中の戦いを、終わらせるために-

「しょうがない」と呟けると、
呟けない自分よりも
楽に生きることができる。


例えば、昨日人から言われたあのひと言が、
なんか引っかかっているな〜という時。

「あの行動の意味はなんだったんだろう」と
考えちゃう時。

「もう知らんがな」と言いたくなるような
理不尽を感じる時まで。

全部、「しょうがない」のひと言に乗せて吐き出してみよう。
すると、不思議なスイッチが入る。

それは、なんとも言えない"解放感"なのだ。

日常にある、どうしようもないこと

「だって、ママじゃないと嫌だもん!!!」

とある病院の小児科に響き渡る、子どもの大きな声。大きな声の主の男の子は、採血が嫌だと、小一時間くらいごねている。

床に膝をついて、えんえん泣いて、看護師や母親の手を、嫌だ嫌だと腕を振り払う。近くにいる他の親や子どもたちは、見てはいけないと思いながらも、横目でチラチラ。息をのんで、事の行く末を見守っているようだった。

「ママじゃないと嫌!!」と言ったものの、母親が近づくと「違う看護師さんがいい!」「ここじゃ嫌だ!」と、次々と別の要求を言う。
おいおいおい。

周りにいる大人たちは「いい加減にしなさい!」「それは危ないでしょ!」「もうおもちゃ買わないよ!」など、てんやわんやだ。

子どもも大人も、それぞれに必死だ。
自分の想いをなんとか達成したいと、必死なのだ。もう「しょうがないなぁ」と言えるような状況ではない。お互いに。



この男の子や、彼の周りにいた大人たちのように、今この瞬間でどうしようもないことが、日常の中にいくつもある。

それは抑えきれない怒りとか、どうしようもないことへのモヤモヤした気持ちや、特定の人に対する違和感など。

それらの原因は、だいたいコントロールできないこと。だから、どうにかしたくてもどうにもできなくて、余計に消化しきれない気持ちだけが残るのだ。いつまでも。

✴︎


昔、こんな出来事があった。
先輩の失敗を「連帯責任だ!」と言って、上司から怒鳴られたのだ。

その先輩は、(失礼かもしれないけれど)「それ、今しないで‥‥」と思ってしまう言動が度々あった。
痺れを切らした上司からは「あの人が余計なことをしている時は、あなたが止めに入らないとダメだしょう!」と言われた。大声で。

「はぁ。」釈然としないまま返事をする。
そもそも、なんで私が怒られてんだろう?

上司は、機嫌が悪くなると八つ当たりされる。それは前からあり、「また怒ってるなぁ」くらいで流してきた。
けれど、あまりの理不尽さに、私の我慢も積もりに積もって、言葉も浮かんでこなかった。

こんな風などうしようもないことが、
日常の中には五万とある。


意味を考えることを止める

「鏡の法則」について、知っている人は多いと思う。私たちの身に起きる出来事は、全て私たち自身の心を映し出したものだという法則。
「泣きっ面に蜂」ということわざは、まさしく鏡の法則のことではないかなぁ。

そういう知識はあったので、ネガティブな出来事があった時に、いろいろと考えるわけだ。
「この出来事には、何か意味があるんだろうか」「私には、自分で気づけていない気持ちが、何かあるんだろうか」と。

上司に怒られた時も、そうやってしばらく思考を巡らしてみた。けれど、考えれば考えるほど、怒りの種が大きくなっていく。


悶々としている最中、いつもと様子が違う私の何かを感じとって、例の先輩が気を遣って声をかけてきた。けれど、話を聞きたくもないし、話したくもなかった。

「もう、余計なことしないでよ。」
頭の中で、鳴り響く自分の声。


まるで、中学生の頃のようだ。クラスメイトがイタズラをして学校の物品を壊すだの、持ってきてはいけないものを学校に持ってきただの、いろいろあった。

それを担任の先生が「みんなの問題です!」と言って、クラス会議を開いてしまうような、
あの空気感。

「いや、知らんわ。。」
それが、巻き込まれたクラスメイトの本音。
今回の件も、巻き込まれた被害者のような心持ちだった。


そうは言っても、先輩の行動をコントロールできる訳でもないし、「私は関係ありません」と上司に反論しようとも思わなかった。どうにかならないかと考えるほど、なすすべが見つからず、その一件以降、先輩や上司と仕事で毎回顔を合わすことが、耐えられなかった。

もう考えること自体、やめたい。
そう思い始めたある朝、通勤中に読んでいた本で目に留まったのが、
「しょうがない」という言葉だった。

意味を考える前に、感情をリセットする


「しょうがない」という言葉が出てきたのは、あるエッセイの中。「うちのばあちゃんは、どんなときも『しょうがない』と呟くのだ」という話だった。

それが私の中で妙にヒットして、
「しょうがない」と、見ず知らずのばあちゃんの口癖を真似して呟いてみた。

一緒にため息が漏れる。
上半身の強張った筋肉が、ふぅっと緩んでいくのがわかった。


しょうがないんだよ。

今、どうにもできないんだから。


もういいか。
どうにかしようと思わなくても。


ただ呟いただけで不思議なくらいに冷静になれて、思考がピタッと止んだ。
なんだろう。自分の内側にあった冷静さと怒りの両方を、少し離れたところから見つめている感覚。


渦巻いていた感情から一瞬離脱してみたら、思っていたよりも、怒りの出来事に執着していた自分がいた。

なんとかしようと焦る気持ち。
言葉も浮かんでこないくらいの気持ち。
何もかも信じられない気持ち。

そういった感情がどうしようもない過去の出来事と付随して、ぐるぐると頭の中を占拠している。それが浮かんでは消えて‥を繰り返しているのは、その出来事に執着しているからなのだ。理由は人それぞれ。自分にとって必要だから、持ち続けている記憶なのだ。

でも今は、理由を考えるタイミングじゃない。


起こった出来事の意味をあれこれ考える前に、まず感情のリセットが先だったのだ。
順番、大事。

許せないことや、理解できないようなことも、時間が解決してくれることがある。まずは感情を落ち着けて、柔らげることが、感情にまみれた時にまずやることなのだ。

呟いてみたら、ちょっと「抜けた」感じがした。
その日1日、自分のコンディションを立て直して、機嫌良く働くことができた。


「しょうがない」で広がる多様性


「しょうがない」とは「仕様が無い」が由来だ。「ok!大丈夫!」という了解の意味もあるし、「残念だね」という諦めの意味もある。日本語的には、どちらかと言うとネガティブな意味合いが強い。

でも、感情を一旦リセットしてくれる素敵な役割もあるのだ。

それに、一回諦めてみると、自分の中にある様々なルールが見えてくる。

こうあるべきだ。
こうあってほしい。
といった、他者に対する期待や願望。

上司に機嫌よくいてほしい。いるべきだ。
先輩が効率よく動いてほしい。動くべきだ。
自分の望む職場の雰囲気と随分違うことに、苛立つし、変えたいと思うし、自分は被害者だと思い込む。

でも結局、他者の心は変えられない。
コントロールできるのは、自分の気持ちだけ。
だから期待や願望は、持つのは自由だけれど、相手に押し付けるものではないのだ。

「しょうがないな」と一言呟いてみると、
期待も願望も無い気持ちになれる。
相手をそのまま受け止められる気持ちになれる。

それって、広くみてみると、多様性が受け止められることでもあるんじゃないだろうか。いろんなキャラクターの人がいて良いんだよっていう。それは自分自身のことも、だ。いろんな感情を持てることを、受け止めるということだ。

「しょうがない」は、私のことも相手のことも認められる、ちょっとしたおまじないの言葉なのだ。

✴︎

そう言えば、冒頭の男の子の採血はどうなったかと言うと、無事に終えられたようだ。
いろいろあったようだけれど、最後は男の子が「しょうがない」と心を決めたような感じだった。

それも、アリなのだ。
子どももこうして、「しょうがない」のアレコレを学んでいくのだろう。


こうして自分の中で起きていた戦いが終わり、
フレッシュな気持ちが始まっていくのだ。

この記事が参加している募集

多様性を考える

いつも楽しく読んでくださり、ありがとうございます! 書籍の購入や山道具の新調に使わせていただきます。