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スピリチュアルに向き合うということ。

「スピリチュアル」という言葉を聞いて、あなたはどんな感覚がするだろう?

ワクワクするだろうか?
ザワザワするだろか?
何も感じないくらい無関心だろうか。


今私は、瞑想や自己愛(セルフラブ)をお伝えする講師として活動している。瞑想や自己愛について深く学べたおかげで、自己探究が進み、自分自身への信頼感が大きく前進した。私にとって大事な経験だからこそ、それを伝えていきたいと思ったのだ。

しかしこの活動をしていく中で、ある悩みがあった。

それは、「スピリチュアル」という言葉を、自分の中で納得する形で使えていないことだった。

瞑想や自己愛といった人の心理を扱うテーマは、精神論の話と関連が深いため、スピリチュアルと紐付きやすくなる。


今世の中に広まっている「スピリチュアル」とは、目に見えない体験や、あっと驚くような神秘的な体験や思想のことを指すのだろう。私も「あっと驚く体験」は経験したことがあるし、その思想を否定するわけではない。しかし、「スピリチュアル」という単語を聞いただけで、嫌悪感を示す人がいることも知っている。

かなり、得意不得意のある分野だと思う。


私自身はその単語自体には何も感じないが、「スピリチュアル」という言葉に対して嫌悪感を抱く人が発する、その音の響き、言葉の響きには、とてもザワザワする。

腫れ物を触るかのような、言葉の響きに感じるのだ。

その様子を見ていると、「どちらの考え方とも共存できないだろうか?」と思ってしまう。

確かに、幻想や地に足がつかないような話は、私もあまり好きではない。けれど、

目に見えることが真実だ。
目に見えないことが正義だ。
(つまり、反対の考えは間違っている)

といった、どちらか一方の思想優位な状態ではなく、どちらも有効に(友好に)生かせないかと思うのだ。

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今回、『スピリチュアルズーわたしの「謎」ー/橘玲(幻冬舎)』という著書を読み、スピリチュアルについて深く考えたのと同時に、「自己らしく生きること」について考えるきっかけを得ることができた。

さらにそこから、「自分を愛するために瞑想をすると良いこと」「瞑想によって目標や願いが叶いやすくなること」への考えが深まったので、そのお話をしようと思う。



スピリチュアルへの誤解


著書を開き、私は「誤解していた」と思った。

スピリチュアルというのは、心理学でいう「無意識」に「魂」を重ね合わせた言葉だ。脳科学の知見は、意識が無意識と対立しているのではなく、じつは「わたし」のほとんどすべてが無意識で、意識はその一部(あるいは幻想)でしかないという膨大な知見を積み上げている。「わたし」というのは、突き詰めれば「無意識/魂」の傾向のことだ。
引用:『スピリチュアルズーわたしの「謎」ー/橘玲(幻冬舎)』

なるほど、「あっと驚く神秘的な体験」を指すのとは、そもそもニュアンスが異なるようだ。

スピリチュアルとは、魂。私は、無意識。

脳は潜在意識が95%以上を占めていて、顕在意識は5%以下だという話はよく聞く話だ。例えば、朝起きたら自然と体が洗面所のほうに向かったり、頑張らなくても自転車が漕げるのは、潜在意識(≒無意識)が働いている結果だ。

行動や癖など、それら習慣のほとんどは潜在意識が司っていて、そのほとんどが私を創り出している。

だからスピリチュアルという言葉は、「わたし自身=無意識の状態」を指すらしい。

瞑想とスピリチュアル

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今度は、瞑想とスピリチュアルの関係を考えてみたい。

「瞑想」とは、どのようなものをイメージするだろうか?

黙って、じっと座っているもの。
修行僧がやるもの。
ヨガの前後でやるもの。
スピリチュアル的なもの。etc.

いろいろなイメージがあると思う。

私も「瞑想」を深く掘り下げるまでは、
「瞑想って何?」と聞かれても
【黙ってじっとして座っているもの】だと答えていたと思う。

でも不思議なことに、
瞑想についての知識が無くても

黙ってじっと座っていて、誘導してくれる人の言葉に耳を傾けていると

自然と心地よくなり、リラックスできたし、思考がクリアになる体験をした。

ハッとした気づきが起こりやすくなり、今までモヤモヤしていた気持ちが、予期せぬタイミングで言語化できる体験もした。

それに伴って、文章のアイデアが浮かびやすくなった。


だからnoteやSNSで文章を綴るときにも
とても役に立っていると感じる。

スピリチュアルが私自身のことだとすると、気づきが起きたり言語化しやすくなったりしたのは、瞑想により、無意識・魂の部分の私の思考が引き出されやすくなったからだろう。

脳がリラックスしていることが、大いに関係していそうだ。


瞑想がもたらしてくれる変化


もっと詳細に、瞑想がもたらしてくれる変化の例を挙げてみようと思う。これは実体験に基づく。

まず、私のように組織や会社で働いている人。

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会社員をしている人が瞑想をすると、
・いつも戦闘モードな思考の緊張感が解ける
疲れが和らぐことで、食べたいものがわかる。
・ついイライラしちゃう同僚や仕事の関係者に寛容になれる
新しいアイデアが浮かびやすくなる。
などの効果が得られる。


戦闘モードになっているのはどういう状態かというと、

脳の交感神経が活性化して神経伝達物質が放出され、腎臓にある副腎を刺激し、ストレスホルモンと言われるコルチゾールが血中に分泌されている状態だ。

いわゆる「ストレス状態」なのだ。

そうなると、活動的になれる反面、
その状態が過剰に続くと脳のパフォーマンスは格段に低下してしまう。

だから、食べたいものがわからず、甘いものに手が伸びやすくなる。手っ取り早く血糖値があげられて、幸せを感じられるホルモン(ドーパミン)が分泌される仕組みが働くからだ。

瞑想はこのストレス状態を、上手に素早く鎮静化させてくれる。


次に、子育てや教育関係の仕事をしている人。

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私は0~10歳くらいまでのお子さんと関わる仕事をしているのだが、日々子どもと関わる人にも、とっても瞑想は役に立つと思う。

・子どものヤンチャに寛容になれるため、いちいち反応しなくなる。
・子どもに心理的安定がもたらされる。
・子どもとの時間に集中できる
・子どもをありのままに受け止めることができる。etc.

子どもは自分自身の写し鏡のようで
私がイライラしたり上の空であると、
子どもは泣いたり言うことを聞いてくれなかったり。

けれど、私の心が安定し、泣いても「どーん」と構えることができると、泣き止むまでの時間がうんと早いし、笑顔が増えた。
人気者のお姉さんにもなることができた。(笑)


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また、ライフワークとしてnoteを書いている人や、クリエイティブな仕事をしている人にも良い習慣になるだろう。

新しいアイデアや気づきが起こりやすくなる。
スッキリした気持ちで作品と向き合える。
・作品に想いが乗りやすくなる。etc.
という変化が、わたしの実感としてもある。


これらの例から、ストレス状態が低減されることで、日常に良い変化がもたらされることは想像できたと思う。では、次はもっと具体的なところをお話していこう。

リラックスをもたらす副交感神経は多重になっている


「自律神経」という言葉はだいぶ身近になってきている。その自律神経の内訳は、交感神経と副交感神経(迷走神経)だ。

交感神経がストレス系で、
副交感神経はリラックス系だと捉えるとわかりやすい。


さて、その副交感神経は活性化するとどうなるのだろうか?

実は、リラックスするのではなく失神してしまうのだそうだ。

ここについては、
『スピリチュアルズーわたしの「謎」ー/橘玲(幻冬舎)』に詳しく書かれている。

副交感神経を活性化させて失神しないために、人には2本の副交感神経が備わっている。一つは「新しい副交感神経」、もう一つは「古い副交感神経」。

ヒトは徹底的に社会的な動物だが、交感神経と副交感神経だけしかないとすると、見知らぬ相手と出会ったときの反応は➀逃げ出す、②襲いかかる、➂失神する、の3つしかない。この相手は敵かもしれないが、もしかしたら交易や同盟、性愛などで大きな利益をもたらしてくれるかもしれない。これは社会的な動物にとってきわめて重要なので、なんらかの方法で「逃走/闘争」系と「シャットダウン」系の反応を抑制し、社会的な交流ができるようにしなければならなかった。
引用文献:『スピリチュアルズーわたしの「謎」ー/橘玲(幻冬舎)』

これはめちゃくちゃ面白いし、ちょっと感動してしまう案件だった。

私たちヒトは、徹底的に社会的な動物であるため、潜在的にも顕在的にも、自分と他者との関係が円滑にいくように行動していたらしい。

だからヒト社会で生き延びるために、神経系のシステムさえも発達させてきたのだ。

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人類はすごい。

そう思うと、自律神経をきちんと整えられる人は
人間社会の中でしっかりと生き延びられる知恵と技術を備えているとも言えるし、ある意味「勝ち組」なのかもしれない。(言葉のチョイスはあまりよくないかもしれないが)

自律神経の在り方を知ることで、自分でリラックスできる方法を身につけておくことは、何にも変え難い財産にもなり得るだろう。

瞑想がもたらす効果に、期待を寄せずにはいられない。


自己愛とスピリチュアル


次は、自己愛とスピリチュアルについて。

本書では、自己愛について以下のように述べている。

わたしたち(のスピリチュアル)が、自分を世界の中心にいる創造者だと思っているなら、ナルシシズム(自己の絶対化)は特異なパーソナリティではなく「神の属性」そのものだ。すなわち、ひとは誰もがナルシストであり、自己愛がない人間がいると考えること自体が荒唐無稽なのだ。
引用文献:『スピリチュアルズーわたしの「謎」ー/橘玲(幻冬舎)』

確かに、「自己愛」は万人にあるものだと思うし、だからこそ如何様にも育てることができるものだと思っている。

ただ、私自身が思う「自己愛」と「ナルシスト」は異なる。

「ナルシスト」は、自尊感情が非現実的な領域に達している状態だが、私が思う「自己愛」は、「自他ともに思いやりのある状態」だと、解釈しているからだ。


つまり、自分を思いやる気持ちを持てることで、自分の周りにいる人をも思いやることができる。それは、自分の心が満たされているし、満たしてあげられる方法を知っているから、他者にその気持ちを満たしてもらおうと考えることが無くなることだともいえる。


そうなると、他者に人生の主導権を握られることなく、自分自身、つまり魂・無意識をコントロールすることができる。他者の言動に一喜一憂することが格段に減るということだ。

ストレスを受けることも少なくなるし、これ本来の自分を生きられると思うのだ。

これはつまり、無意識・魂の自分を生きることになるのではないだろうか。


自分を生きるためのスピリチュアル理論の活用

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「協調性」「同調性」など8つの因子で、パーソナリティは構成されている、と本書で言われているように、人には様々な性質がある。


似たもの同士はいても、同じ人がいないからこそ、ヒトは社会的な動物として成り立つのだろう。

その性質が8つの因子の内のどれにあたるかにせよ、どの性質が強いか弱いかにせよ、自分自身をコントロールできるようになることが、自分を生きるための要ではないか。

それは、瞑想をすることかもしれないし、自己愛を育てることかもしれない。そのほかのツールがフィットするなら、それも良いと思う。


何より自分自身、つまりスピリチュアルをコントロールできるようになると、

自信になる。

自尊心が高くなる。


そうすると、「自分にはデキる力があるんだ」という自信がつくため、願望実現する力が加速する。

そのためにはまず、「自分とは何か」を知ることは大事だし、自分を生きるためには、スピリチュアルの開放、すなわち「私の魂・無意識の開放」が要になることは必須なのだと思う。


そして、私自身の魂が、のびやかに力を発揮させるために、ヒト社会で脳をリラックスさせる方法(私なら瞑想)を身に付けておくことや、自分を活かす環境で生きていくことを心得ておくことが重要なのだ。

「成功した人生」とは、あなたのスピリチュアルに合ったポジティブな物語をつくることだ。そのためにこそ、自分のパーソナリティを知らなければならないのだ。
引用文献:『スピリチュアルズーわたしの「謎」ー/橘玲(幻冬舎)』

つまり、自分自身を全うに生きるために、自分自身を生かす方法を学ばなければならない。

この人生で何を叶えたいだろうか?
これからどんな願いを持って生きていくのだろうか?

それぞれに答えがあると思うが、大きなテーマというか、その根本は、自分のパーソナリティを活かして、生き生きと生きること、なのだろう。


今日も誰もが、大小関係なく、自分のもつ願望・目標に向かって、自分自身のスピリチュアル(無意識・魂)と、無意識に向き合っていることだろう。

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