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目に見える、見えない、

こんにちは、ユキノです

日記というものは三日坊主ばかりで、これまで続いた試しがなかったけど、noteの投稿は今日で4日目。昨日投稿ボタンを押したら、画面の真ん中に「3日連続更新おめでとう」と出てきて、やっぱりわたしはわたしだけが読むために文章は書けないし、誰かが読んでくれるから文章を書けるんだなと思った。ただのアルゴリズムなんだけど、褒めてくれてありがとう。これからも、がんばるね。

それにしても、文章を書きながら、「共感して欲しい」「評価して欲しい」とは思ったことがない。わたしが書いている文章はどこまでも個人主義的で自己満足の世界にあるもの。そう、昨日このことについて話をしてくれた人の言葉を借りるなら、わたしの文章は「わたしの法律」の中で出来上がっている。だから、ほかの人が作った法律で裁かれた日には、発狂してしまいそうになる、たぶん。ありがたいことに、これまでそんな心ないコメントをもらったことがないから、わからないけど。

もちろん書いた文章に対して「好き」「気に入った」と言われることはほんとうに嬉しい。心のどこかで繋がった気持ちになれる。感情が共鳴している不思議な気持ちになる。それはものすごく特別な感情。そのために書いているのも、ある。

昨日は文語定型詩と口語自由詩についての授業を受けたけど、やっぱり、文語定型詩、「定型」の持つ力を信じる人たちもいる。文字数や韻、決められた共通のルールで、同じ土俵に立って、奥が深い、美しい文章をかくことを突き詰めることは、ものすごいことだと思う。パワーがいることだし、頭も使うし、美しいことだと思う。

でもやっぱり、わたしは口語自由詩の表現の幅を、行間を、語らないことによって生まれる孤独や悲しみ、喜びをたまらなく愛しているのだと思います。

そらに浮かんでいる
わたしが、ふう、と空気をふきだす
空気が波になる
どこまでも、どこまでも揺れていく
戻ってはこない
そら、手のひらがつめたい。

​自由と孤独、というものを主題にして書いた詩。

自由や孤独感は目に見えない。それを目に見えるかたち、音として感じられるリズムによる表現の幅の中で語ることは、難しいときもあるとわたしは思っている。

だからこそ、目に見えないものをあえて語らずに、文章にする。さみしい、とは言わない。そして、それを読んだ人と感情が共鳴したとき、読んだ人がなにかを感じてくれたとき、そこには目に見えないものすごく強い繋がりが生まれるのだと思う。


うわ、なんか気がついたら一生懸命書いてしまった。はずかしい。

そんな4日目でした。






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