方位磁針(4/21 今週の気になったニュース)
超〜〜〜〜〜〜〜久しぶりに書きます。卒業関連の出来事とか、新生活やらでなかなか書こうというモチベーションではなかった。ただ、ここでやっと腰を据えて書ける時間ができたので少し書いていこうと思います。
というわけで、今回書くニュースのテーマはこれ。
ざっくりとした要約
ざっくり言えば、彼が過ごしている少年刑務所が、社会よりも生きやすいと述べていることから話が始まっている(続きは各自で)。これについて、ネット上でいろんな反応があるという構図。
もし身の回りににいたら
仮に身の回りでこういう考えしている人がいたら「他人の尺度で生きるな」と上から目線で説教するタイプだと確信しています。自分のこれまでの経験上、やりたいことがベースにある人間がこんな発言をするはずがないし、多分やりたいことがないんだろうな、とは思う。
ニュースの中の誰かもわからないからまだしも、身の回りにいたら相当イライラすると思う。
まあ、それで話が終わらないんで色々考えるけどね。
法と道徳
人間は「法」の中で生活していないかもしれない
この受刑者の語る社会と刑務所の違いは以下の通りだった。
社会:評価軸が曖昧。報酬も懲罰も確実とは言えない。
刑務所:ルールが明確。違反者には懲罰が、模範生には報酬が明確に与えられる
その上で、「刑務所の方が楽」といっているわけだが、この側面だけを切り取って考えると「確かに」とは思う。
というのも、刑務所で執行されているのは「法」だから。そして、よくよく考えれば社会の中で「法」が執行されている場面って実はかなり少ない。なぜなら、法を犯した者の処分は警察、検察、弁護士、裁判所、そして刑務所といった法曹の世界に委託されているからだ。もちろん、組織に属していれば組織内の「法」があって、それに違反したものは最悪解雇されるのだが、それは単に「追い出した」に過ぎない。「法」の執行は一瞬で終わり、継続性も連続性もない。
実際、彼はこれまで多数の組織の「法」に違反し、そして追い出されてきている。
でも、刑務所という「法」の中で生活したことは彼の人生においてなかったことであり、ひいては法を犯さない一般人にとってもほとんどない経験なのかもしれない。
そして、彼にとって「法」の中の方が居心地が良かった、というのはそれ自体は何でもない個人の感想なのだ。
道徳で動いている社会
翻って、私たちの社会を覆い包んでいるのは、「法」ではなく道徳なのだろうと思う。
道徳というのは、学校で教えられるように「人それぞれ」の側面を有しつつも、一定の幅を含んだ「正解」が存在している。そして、道徳を忠実に遂行したものへの報酬も明確でなければ、違反したものへの懲罰も明確ではない。
オシャレに言えば「人間(じんかん)」の潤滑油として作用するのが道徳である。決して、誰かを評価づけするための指標ではない。
それゆえ社会が回ってさえいれば、多少の不道徳には目を瞑って見逃すというケースは往々にしてある。というより、不道徳な人間がいたところで「注意したことでトラブルに巻き込まれるコストの方が高ければ、人間(じんかん)の潤滑油という本来の目的に照らし合わせ、見逃した方がむしろ本来の目的が達成される」というふうに換言するのが正しいか。
この受刑者は、道徳に対して、目標づけや、評価されることを望んでいたのだろうと思う。しかし、道徳の役割はあくまで人間関係。そして、人間関係の中でトラブルを抱えていた彼にとって、道徳というものの捉え方に対するズレが、社会での生きにくさを増幅させた1つの要因だったのかもしれない。
一般に、社会、というより会社等の組織における報酬系(要は彼が求めていた賞罰)とは成果物(と年齢)に対してのものである。しかし、彼の年齢では(僕が言えた立場ではないが)、その報酬系のシステム利用権はなかったと推察される。別に中学、高校のテストで何位だろうが、少人数クラスが変わるくらいで大した意味もないわけだし。
つまり、この受刑者の事例から導かれる1つの仮説は、社会から人を矯正、導く機能が失われている、ではなく社会に人を矯正、導く機能なんぞ元からないのかもしれない、ということである。
いや、あるだろう。と思ってみたのだが、それって「恥」に集約されるものかもしれない。そして「恥」というのは、極めて属人的な機能であって、社会に備わっているものではないと考えると、この仮説の信憑性はほんの少し高まると思う。
壊れた方位磁針とその直し方
人は「法」の中でこそ矯正される
人間のうまれつきは悪であって、善なる行為は教育、学問、修養など後天的な作為によって生ずるという性悪説に基づいて考えれば、また、このような性悪説を起源として興ったのが法家だった、という歴史に基けば、人間というのは「法」の中によってこそ矯正できる生き物なのだと思う。そして、「法」の中、という世界はごくごく限られた場所にしか今のところ存在していない。
というのも、上述したように一般社会において法の執行は委託されている(私刑の禁止など近代の正の側面が多分に含まれていることに言及しておく)。また、組織における法の執行の最終形態は解雇・退学といった追放であり、連続性、継続性をもって実行されるものではない。
ではどこにあるのかということに言及する前に、「法」の中、という条件を整理すると、
ルールがはっきりしていること
追放による解決を極力しないこと
賞罰が明確である事。少なくとも「これをしたら怒られる」という状態が成立していること
特に2つ目の「追放による解決を極力しないこと」が特に重要と考える。「極力」としたのは、日本の刑務所にもこの世界から追放するシステムがあったことを思い出し、こうでもしないと該当者なしになってしまうからだ。つまり、この時点でだんだん結論あり気になっていることを察してください。
「法」の中はどこにあるのか
結論から。子育て家庭、小中学校、刑務所。以上。
家庭は1つ目の条件がかなり怪しいが、2つ目と3つ目はかなり高水準で満たしていると思う。学校は今、いじめ問題ではかなり隔離したり、転校という措置を取ることはあれど、学校というもの自体から追放することはない。刑務所ありきで考えたルールなので刑務所は当然3つ全部満たしている。
でも、それだけじゃなんか悲しくない?と思ったので、かなり無理矢理に理論を拡張して別の解決法を提示してからこの話を終わらせようと思う。
哲学という解決法
まあ身も蓋もない自己啓発みたいな話にはなってしまうんですが。受刑者の彼も薄々勘付いてきているかもしれないし、多くの人にとっては当たり前のような話になるのかもしれない。
すなわち、自分自身を「法」の中で生きるようにしていけばいいんだと思う。そして、さっき挙げた3つの条件のうち、1つはすでに達成している。なぜなら、自分は自分を追放できないから。どんなクソ野郎な自分でも、どんな有能な自分でも、それを受け入れて進むしかないから。
あとは、ルールを明確にすること。もっと平たく言えば、ルーティンを作るところから。
多くの人は、子供時代に外部から注入された「法」をそのまま運用している。そのようなことに再挑戦してもいいし、自分で新しくルールを定めてもいい。ベタな内容だと「座右の銘」が決まるとより前に進むかもしれない。
もっとベタに行けば「憧れの人」とかが見つかるといいな、と思う。
正直、ここは自分にはわからない領域です。自分は中学生の時には夢が決まっていたし、憧れの人も絶え間なくいたし、座右の銘は中学の担任が置いてくれた本の中にあった「無欲は怠慢の基」(渋沢栄一)だし。
最難関は報酬系
ただ、一番難しいのは報酬系だと思う。自分で自分を褒めるのが下手というか恥ずかしい人は大勢いるし、日本人の気質的にナルシズムにはなりにくいところがある。
そして、一番は「努力した分が報われるとは限らない」という社会の理不尽との向き合い方。
この人はゲームに置き換えて話をしているけど、ポケモンやドラクエならレベル上げによるゴリ押しが効く。でも、実際の社会には、人生100年時代といえどもレベル(年齢)制限が往々にしてある。だからこれらのゲームと同様、努力の量と同じかそれ以上に個体値(環境因子を大量に含んでいる)が物をいう世界なのは間違いない。普通の努力じゃ一般ポケモンが600族や伝説ポケモンに勝つのは無理だし、頑張って努力したところで、600族ポテンシャルのある奴らの中にだって最高級の努力をしている奴がいる。
ただ、それと同じかそれ以上に、自分のことを一番信じられるのは自分という事実にも着目してほしい。
この前会社の同期(自分と同じく新入社員)に「自分って成功するかな」と、聞いてきた人がいたんだけど、正直心底がっかりした。だから「今のままじゃ難しいね(僕から見た具体的な弱点も添えて)」と返すとめちゃくちゃ落ち込んでた。その様子を見てさらに失望した。「なぜ僕ごときに聞く?」とも思ったし、それ以上に成功するかどうかの判断を他人に投げているうちは絶っ対成功しないと思っている。
「(俺はこのあと成功するんだけど)足りないところはまだまだあるはずだから教えてほしい」くらいの自己主張の強さで生きていこうぜ。うん、深夜テンションになったから終わろう。