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私の部活はジョブトレだった。


中学、高校とさほど打ち込んでいたものはないまま、母に押し込まれるように入った大学。


でも、そこには沢山、宝のかけらが詰まっていた、今から思うとそんな気がする。




私は、昭和の後半に教員養成大学の障害児教育を専攻する学科に入学した。

そして、きっかけはよく覚えていないのですが、障害のある人々との交流をする障研に入った。


子ども達と遊ぶ会では、初めて自閉症のお子さんKちゃんとトランポリンに乗って、すごく楽しかった。私も初めてのトランポリンを跳ぶ感覚が面白かったし、Kちゃんが、目を輝かせてにこにこして楽しんでいる様子を見て、私も嬉しくなった。心から可愛いなあ、と思った。

でも、時には自分の気になるものがあると走り出してしまったり、ずっと動かないで流れる水を見ていたり、という障害のある子どもたちの行動を不思議に思うこともしばしばだった。


しっかり反省会もあり、障害のある子ども達との関わり方や遊びの会の運営について疑問点を聞いたり、次回への修正点を洗い出したりしていた。




そんな中で部の会議では、学習会という活動があり、発達心理学の入門書を当番を決めて輪読し、学習会では要約と疑問点、検討してほしい点などを書いたレジュメを作っていった。

そこでは、先輩たちは本の解釈をめぐり、論理的な意見があちこちからでて、私は大学ってすごいところだ、授業以外でこんなに真剣に議論している。と感心したり驚いたした。


また。私は障害のある成人の人たちとの交流会を企画する係りになって、先輩たちと身体や言語の障害のある脳性マヒの方たちと、打ち合わせを重ねた。

脳性マヒの方はお会いしたことがなかったので、最初は身体の拘縮や発声の障害に驚いたことを覚えている。

しかし、よく聞いてみると話の内容は好きな食べ物とか歌手などを交え、時にはジョークを飛ばし合う先輩達の中で、しだいに私も緊張がほぐれたような気がする。


そして、大学祭での発表だ。

当時は養護学校(現:特別支援学校)が義務化され、障害の重いお子さんも教育を受けることが保障されたばかり。そのために、一人一人の子どもが入学する学校を選択するため、教育委員会に就学指導委員会ができた。


その運営について、いくつかの自治体に話を聞きに行き、項目ごとに表にしてレポートにまとめた。ファックス原紙に手書きで、印刷も輪転機と手刷りで数百枚、明け方までかかって印刷・製本して、作り上げた。


と、書いて、がんばりました物語になってるけど、本当は結構、いい加減なところもあって、部会に行かず図書館にこもっていたこともあるし、


そして、昼休みとか放課後ブラッと部室に行くと、誰かがいてたわいのないことしゃべったり、冷蔵庫に誰かが実家に帰ったお土産が置いてあって、

「どうぞ、食べてね。」

みたいな、メモが添えられてあったり、


それから、

誰でも書いていい、サークルノートがあって、


それこそ、「◯◯で疲れた〜」「●●の単位落としそう・・・。」

みたいなちょっと愚痴を書いてみたり、

「誰でも、いつでも、来ていいよ。」

そんなオープンな、大学の中の居場所みたいな部室だった。実際は古い兵舎を使った、今にも倒れそうな木造平屋建ての「サークル長屋」だったけど。


と、取り止めなく書いてきましたが、振り返ると
障研での活動は、私に大切なことを気づかせてくれた。


対象となる人や物についてよく観察すること、疑問はすぐ調べたり確かめたりすること。

時には自分の考え方をまとめて、他の人から助言を受ける機会をもつこと。


周りの人と食べたり飲んだり、喋ったりと、交流しながら楽しんでいくこと。

それは、その後30年近く、仕事を続けていく上での基礎を築いてくれた、とても濃い学びの多い時間だった。

そして、その後、母の介護や障害を負った実兄の介助などをすることになる私には、なくてはならない時間だった。




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