見出し画像

私の人生には「推し」がいない。でも、それでいい。

「推し」ってことばを聞くと、後ろめたい気持ちになる。

わたしには、ずっと「推し」がいない。
一時的に夢中になったものはあった。でも心底愛するものを見つけたことがない。「好きな芸能人」とか「趣味」の話がずっと苦手だ。

「推し」のいない生涯をおくってきた

小学2年生の時はモー娘。が好きだったけど、曲は「LOVEマシーン」くらいしか歌えなかった。当時1番好きだったゴマキも、顔がかわいくてステキだな~と感じているだけで、ゴマキの曲や振り付けはほとんど覚えていない。モー娘。にあてるお小遣いも必要最低限だけ。同級生の間でモー娘。ブームが去ると、わたしのモー娘。愛も自然消滅していった。

中学ではジャニーズがはやったけど、私を夢中にさせる人はいなかった。かっこいい人はたくさんいるし、好きな歌もたくさんある。でも「自分の意お金をかけるほど好き」とは思えなかった。友達の影響でHey!Say!JUMPのCDを買い、コンサートに1度だけ連れていかれた。でも「コンサート代があれば何が買えるだろう……」と考えてしまい、結局全然ハマらずに終わった。

人生で1番熱中したのは、高校時代のファンキーモンキーベイビーズだろう。あのときはCDを毎回買っていて、コンサートにも電話応募した。混み合う電話回線に何度もかけ直し、ようやく繋がった電話を間違えて切ってしまったときは号泣したっけ。でもコンサートに1度も行かぬまま、ファンキーモンキーベイビーズは解散した。それと比例するように私の愛情もしぼみ、今では有名な曲すらあまり聴かなくなった。

私はいつも「にわか」・・・推しがいないコンプレックスに悩む日々

いまの時代「推し」がいる人が強い。「推し」がいる人のSNSはおもしろいし、noteなどの文章も読んでいて楽しい。大好きなものを発進する人って、とても魅力的だ。だからSNSで話題になったり、TV番組に出演したり、書籍を出版する人もたくさんいる。「推し」関連の仕事に転職した人もいるはずだ。大きな変化はなくとも、ネット上で有名になって、仕事をもらえるようになった人もいるとおもう。

わたしはいっつも「にわか」だ。そこそこ好きだけど、あんまり詳しくない。何時間でも語っていられるものがない。お金と時間をふんだんにかけられる対象がない。「推し」がいない自分はなんだか中途半端な気がする。

私は長らく「推しがいないコンプレックス」に悩まされていた。

熱中できなくても「好き」は「好き」

そんな私に「今のままでも良いんだ」と思わせてくれたつぶやきがある。

この言葉を見て、自分で勝手に「推し=熱中できる大好きなもの」だと考えていたことに気付かされた。

深くせまく愛せる「推し」がいなくても、広くて浅い「好き」も十分すばらしいんじゃないだろうか? 

わたしは1つのことに熱中・没頭しづらいだけで、「好き」なものはたくさんある。毎週の配信を楽しみにしているスマホ漫画、常備している68円の納豆、ついつい見ちゃう芸人のYoutube、近所の小さなケーキ屋のショートケーキ、冷やし担々麺、一人旅、大好きな本・・・・・・。

愛情の大きさを、誰かと比べる必要なんてない。「少し好き」でも「そこそこ好き」でも「なんか分からないけど気になる」でも、好きは「好き」でしかない。それでいいんじゃないだろうか?

「推しいないけど、何か?」といえるように

わたしの人生には「推し」がいない。
今までも、たぶんこれからも出来ないだろう。

だけど「好き」なものはたくさんある。他人と比べて小さな「好き」であっても、自分の好きなものは大事にしていきたい。推しがいないからこそ、小さな好きも大事に出来るだろうし。

「推し」いないけど、何か? と、堂々と生きていけたら良いなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?