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いまにも忘れ去られるこの瞬間

 目の前から来る男の歩調が左に揺れた。

 やたらと出口の多い新宿駅構内。どうやら探していた出口を見つけたようだが、男は確信が持てなかったらしい。そのためらいが一瞬の揺れに現れていた。顔だけを左に向けたまま、男は元の進路に戻った。

 このあと男が左に折れるとしたら距離とお互いの速度を考えればぶつかることになる。時間のかからない目算をして僕は歩みを早めた。ここは自分が早く通り抜けるので、判断がついたなら僕の後ろを通って左側の出口に向かってくださいね。そうルートを示したつもりだった。が、男は僕の前で急速に折れた。

 危うくぶつかりそうになったのを避けたあと、惨めな気分が胸に広がった。こうなることが嫌で自分は行動を起こしたのだ。しかし、男が周囲を見ずに己の目的ばかりにとらわれていたせいで、回避できたものを回避できなかった。というか男の唐突な折れ方は嫌がらせに近かった。こいつなら俺に道を譲るだろうというような。そんな男に対して僕は配慮の気持ちを持って歩速を上げて自分の背後に道を作ったのだ。目算してから足を早めるまでの過程を思い返すと、惨めな気持ちの苦味はじわじわと増した。

 久しぶりに仕事終わりに映画を観に行こうと思い立った日である。いつものようにおとなしく家に帰っていたなら、この出来事に遭うこともなかったのかと思った。だからおれは外に出たくないのだ。読み手になんてこいつは心の狭いやつなのだろうと呆れられてしまうような些事を書き連ねているかもしれないが、僕は未だにこんなことで傷つく精神で生きている。この世に生きるということは、自分のためにはけして遠回りをしてくれない他者とどう折り合いをつけて関わっていくかということである。

 地上に出ると雨が降っていた。信号を待っている間、ふと思った。おれは外に出ている間ずっと警戒にしている状態にあるな、と。自分が不愉快な目に遭うんじゃないかずっと恐れている。そうやってこれまで過ごしてきたんだなと思うと、自分のあらゆる記憶に影が差した。

***

 と書いていてきたが、本題はそんな苛立ちについてではない。

 観に行った映画は『デソレーション・センター』、1980年代のアメリカでSonic Youth、Minutemen、 Einstürzende Neubauten という面々を砂漠に招集して開催されたライブのドキュメンタリーだ。

 僕は上記3バンドを目当てに観に行ったのだけれど、この映画のハイライトは間違いなく Meat Puppets のライブだった。演奏の途中でボーカルが「Turn the lights off」と言うと照明が落とされて歓声が上がった。手元やフレットを照らす光をも拒絶した一切の闇。そんな真っ暗闇の砂漠で続けられた演奏は幻想的な域にまで達していた。真っ黒のスクリーンはただ真っ黒なのではない。そのなかに Meat Puppets がいる。観客たちがいる。カメラはライブの様子を映し続けているが、僕らの目には何も見えてこない。スクリーンには塗りつぶしたような黒があるだけ。Space Jam と呼ばれる演奏を聴きながら、僕たちは劇場前方の闇に溶け消えたスクリーンをただ観続けた。高揚する闇、というものを初めて見た。

 Meat Puppets がこんなにいいバンドだったなんて知らなかった。

 実を言えば、今年 Meat Puppets を聴こうとは思っていたのだ。毎年のこととして夏はオルタナを聴くようにしていて、今年はグランジの主要どころを抑えるために Alice In Chains と Pearl Jam を聴いていた。それで Pearl Jam  の前身である Mother Love Bone や Temple of The Dog にまで手を伸ばしていたら思いのほか時間がかかって、Meat Puppets を聴く前に夏が終わっていた。『デソレーション・センター』を観るまではまあ来年でいいかと考えていたのだけれど、後回しにしている場合じゃなかった。家に帰ってからとりあえず代表作のアルバム二枚を Amazon で注文した。

『デソレーション・センター』で Meat Puppets を初めて聴いたのは僕の無知だとしても、ほかの観客たちもあのパフォーマンスについては知らなかったはず。そして当然、この映画を観るまでその他の人々は知る機会を得られないわけで、もっと言えば、この映画が作られるまではあのライブ会場にいた人たち以外に Meat Puppets の快演が知られることはなかった。それってすごくもったいないことだなと思った。

「もったいない」、なにが? あの暗闇での砂漠ライブが広く知れ渡っていたなら、Nirvana みたいな誰もが聴くバンドの位置にまで Meat Puppets は押し上げられていたかもしれないから? そうではない。このクソどうでもいい世界に作り出されたクソどうでもよくない瞬間が見過ごされていることがもったいないのだ。

 しかし Meat Puppets の演奏は三十年以上前だというのに映像として残っている。もったいなさはあるものの、記録されている以上、彼らの演奏はこの地球上で何度でも繰り返されて、泣きたくなるくらい遠い未来の音楽好きのもとにも届く。だから、彼らの一回限りの演奏は(これから書き進めていくためにいろいろな考えを省略して言えば)無駄ではなかった。だがそれと比べて、塵のごとく吹けば飛ぶような僕らのことを百年後、二百年後いったい誰が覚えているだろう。もちろん砂上のライブという非日常的な体験が撮られていることはなんら不思議ではないので、こうして比較するのもおかしいのだけれど、大概の人の生は記録されることはない。すべては忘れられていく運命にある。僕が言っているのは特別な日や出来事についてではない、今日考えたこと今日喋ったこと今日見たこと、それらの些細なことが頭に浮かんでは消え、眼前に現れてはただ過ぎ行くことが惜しいと言っているのだ。この note も、いまこの瞬間にも記憶から薄れていく男への苛立ちと Meat Puppets の衝撃を記録したくて書いている。

 ときどき自分の体験や感じたことを自分だけが覚え続けなければならないのかと思ってゾッとするし、最近では、すべて保存されないなら何をしゃべっても何をしても無駄じゃないかと考えてやけくその気分に駆られた。極端かもしれないそんな考えが浮かんだのはもうすぐ早朝という時間帯。だが着想が色濃く暗いのは遅くまで起きていたからではない。きっとここのところニコニコ生放送を見ていることに原因があった。

 高校から見始めたニコニコ生放送は時間を取られるので社会人になってからは遠ざかっていた。ただ、Twitter で生主たちの動向はチェックしていて、3ヶ月前だったか、よく話題にあがるようになった配信者がなんとなく気になり、放送を見てみたら高校時代に戻ったようにハマってしまった。数年前と比べてライブ配信はすっかりメジャーなものになったけど、ニコニコ生放送には他サイトにはない独自の陰湿な雰囲気がある。

 紹介することが趣旨ではないのでここでも詳細を省くけれど、その配信者はすごく変わった生活をしていて、しかし変わっていると言ってもそれは "微妙なズレ" で、もしかしたら自分もこういう生き方をしていたかもしれないと感じさせる変わり具合なのだ。人から心配されるようなルールを自分に課しているのも、時折なにか葛藤している様子を見せるところにも惹かれた。それで生活リズムを崩しながら毎日の放送を追いかけていたら、次第次第に、生きている日々がこうして記録されていることに羨ましさを覚えるようになっていた。長時間配信をしている人だから、たとえば数年後に「2020年10月15日に自分はなにをしていただろう」と振り返りたくなったときにそれを知るための映像が残っている。あのとき自分が何をして何を話していたか、どういう問題にとらわれていたか、記憶を探ることなくはっきりと知ることができる。言ってみれば、自分の生活がそのままの形で記録されているわけで、数年前のことすら忘れてしまっている僕にはそれが羨ましく感じられた。そして、「すべて保存されないなら何をしゃべっても何をしても無駄じゃないか」という考えにたどり着いたわけだ。

 今は本当になにもかもが無駄だと心の底から思っているし、自分はある終わり方に向けてただ生きているだけという実感がある。他人が心の奥で考えていることなんて知れるものではないけれど、周囲を見回したときにこういう気持ちで生きている人は自分のほかにいないと思う。そんなわけがない、と誰かは言ってくるだろうか。だけど人の意見をおかしいと感じたなら、直接的に「違う」と否定するのではなく、別の視点を提示する必要があるんじゃないか。

 なにもかもが無駄だと思っている自分に手を差し伸べるつもりで、自ら別の視点を示すなら、過去に読んだ大江健三郎の『二百年の子供』から言葉を引用する。

 過去にタイムスリップしたサクちゃんは、120年前に村の危機を救ったという逸話で知られるメイスケさんに出会うが、彼のために役立つことができず、泣いてしまう。しかし自分はなぜ泣いてしまったのか? その理由を振り返ってみるとこういうことだった。

 メイスケさんのために役立てなかったように、「自分はいま生きていて、大人になればなにかやろう、と思ってるけれど、やはりなにもできないのかも知れない(p. 220)」。

 そうしてなにもできなかった自分はただ老いぼれるだけではないのか? そんな未来が用意されているのなら「いま生きていること自体むいみだと証明されてるのじゃないか?(p. 220)」。

 サクちゃんの切ない思いを知った主人公は父親としてこう返答する。

 そこでサクちゃん。歴史できまっていることに、もう一度、立ち会ってみても同じ、結局「むいみ」だ、と考えるのは、正しいだろうか?
 さらに、これこそきみにたずねたい中心ですが、過去の時間と場所に入って行って、そこでなにかしようとすることは「むいみ」だとわかったとして、いま現実にやろうと思い・やってみることも、だから「むいみ」だというのは、文章として正しいだろうか?
 — 大江健三郎『二百年の子供』(中央公論新社 p. 225)

 過去を変えることができないほど自分の存在が「むいみ」であるなら、おそらくは未来を変えることもできないだろう。だから未来を変えるためにいま現実に取り組んでいることも「むいみ」なのだと決めてしまうのは考え方として正しいのだろうか?

 自分のことは自分だけが覚えているしかなく、その自分が消え去ったあとに己の存在の痕跡がこの世に何も残らないのなら、いまやろうとしていることは無意味じゃないかとすべてを諦めてしまうのは生き方として正しいのだろうか?


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