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可能性の放棄

 しばらくの間、苺だけを食べつづけた。
「パックマンも苺たべるよ」私はいってみた。
「そうか」
「一個二百点」さくらんぼが百点、メロンは五百点。
「じゃあ、私はもう千点だな」洋子さんは手元に並べたへたをみつめながら
「本当はさくらんぼが好き」といった。
「私も」
「夏は西瓜っていうけど、あまりおいしくないよね」西瓜は台所のテーブルに置いたままだ。
「うーん」西瓜に義理立てする必要はなにもなかったが、私はあいまいな返事をした。
— 長嶋有『サイドカーに犬』(文春文庫『猛スピードで母は』に収録)

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 長嶋有の『夕子ちゃんの近道』のような小説が理想だ。

『猛スピードで母は』でも感じた、長嶋有の書くあたたかでポップな笑いの良さ。その良さを思い出しながら、『夕子ちゃんの近道』を読んでいる間ずっと「長嶋有ってほんといいよなあ」と考えていた。他の作品も手に取ることにし、タランティーノの手法を意識したという『パラレル』とエッセイ『いろんな気持ちが本当の気持ち』を読んでみた。

 正直、両作とも期待していたものはなかったのだけれど、今度は『いろんな気持ちが本当の気持ち』で紹介されていた作品がいくつか気になった。それで早速そのうちのひとつ、アキ・カウリスマキの映画を観た。

 (前略)試写会の案内をもらって、いそいそと観にいった新作「過去のない男」は傑作だった。
 映画の冒頭でいきなり暴漢に身ぐるみはがされる主人公。後に出てくる社長もそうだが「真夜中の虹」と同じモチーフが使われている。よほどいいたいんだろう、その感じを。ジョン・ウーが二丁拳銃を、リドリー・スコットが格子の間から射し込む光をみせたいように、カウリスマキは、保障のない世界に投げ出されて路頭に迷う状態をみせたいのだ。
— 長嶋有『声高でなく』(ちくま文庫『いろんな気持ちが本当の気持ち』に収録)

 観たのは『浮き雲』『過去のない男』『街のあかり』『愛しのタチアナ』。どれもいい作品で、特に巡回警備員を主人公とした『街のあかり』が良かった。現実に打ちのめされながらも何故か脱出の計画だけは常に持っている主人公。その謎の前向きさがいい。カウリスマキ作品としては珍しく主人公の顔立ちがイケてる点もいい。だから人に勧めるなら『街のあかり』だが、いろいろと思うことがあったのは最初に観た『浮き雲』だった。

 ここのところ観る映画がどれもピンとこなくて、しばらく映画から離れていた。「つまんないなー」と思っているうちにうつらうつらし、映画の途中で眠ってしまう。一応最後まで観るルールを自分の中で定めているので、目を覚ましたら寝ぼけ眼のままでも続きを再生するようにはしている。それでもまた眠りに落ちてしまうので、結局二時間の映画を半日かけて観るような始末。毎回そんなふうに、なんとかエンディングまでたどり着く、といった調子なので「映画はもういいかなあ」という気分になっていた。今回カウリスマキを観ようとは思い立っても、その気分を克服したわけではない。だから、久しぶりに観る映画、『浮き雲』も同じように「つまんないなー」とボーッと眺めることになってしまえば、やっぱりもう映画というもの自体に飽きてきたのかなという気がしてくる。まだまだ観なきゃいけない作品はこの世に多いのでそれでは困る。でも、『浮き雲』は中盤になってもどうにも面白くなかった。

 なんの波乱も起きない映画ではなく、むしろ展開は多い。それなのに、登場人物の喋りや物語の進行が淡々としているせいで、こちらの感情が揺さぶられない。観ている間の浮き沈みがない。それで映画の内容に興味が持てず、言ってみれば完全なる他人事として登場人物の転落劇を眺めることになる。あくびをしながら、冷めた目で人の焦りや困惑をぼんやりと眺める。

 全然覚えていなかったのだが、実はアキ・カウリスマキの作品を観たのは今回が初めてではなかった。観たリストに『カラマリ・ユニオン』『パラダイスの夕暮れ』が記録されていた。あまりに観た覚えのないそれらの映画を画像検索してみても内容が思い出せなかった。ということは記憶に残るほどの引っかかりがない映画だったというわけだ。そういう経緯もあって「つまりカウリスマキは性に合わないんだな」と、『浮き雲』を観ながらまとめに入ろうとしたときだった。画面には、新しい勤め先でワンオペをさせられた後の主人公が映っていた。帰りの電車に揺られ、宙の一点を見つめる疲れ切った表情。その表情を眺めるうち、もしかして、と気が付いた。

 もしかして、この映画が本当につまらない駄作だから「つまらない」と感じるのではないんじゃないか? このつまらなさは “策略的なつまらなさ” で、監督は客に「つまらない」と感じさせたいがためにあえてこの淡々とした映像を撮っているんじゃないか? なぜなら人生にはこのような、つまらないとしか思えない、そういう時期があるから。

『浮き雲』のあらすじは、それぞれの職場で解雇されてしまった夫婦が生活のために職探しに明け暮れるというもの。ようやく仕事に就けてもワンオペを強いられたうえに給料がもらえない。レストランを開業することを夢見ても銀行がお金を貸してくれない。資金作りのためにもはや有り金をギャンブルにつっこむしかない状況に陥り、結局スッてしまう。旧縁からの支援でようやくレストランの開業に至っても、客がひとりもやってこない。

 人生にはこのようにただ耐え忍ぶしかない時期がある。つまらないとしか思えない、そういう時期が。いや、本人たちは現実と戦うのに必死で、つまらないとも感じない。感じている余裕すらない。ひたすらに現状からの出口を探し求めて生きていくしかない。そういう物語を面白く描くことはできる。しかし、カウリスマキは、主人公たちのやるせない気持ちと観ている側の気持ちを結ぶために、物語を退屈に描く方法を選んだ。

 見方が分かるとカウリスマキの作品は面白い。カウリスマキは社会的敗者がさらなる窮境に追い込まれていく物語の所々にユーモアを散りばめる。扱っている内容は暗いが、笑いがあるからジメジメしていない。陰湿さがない。この笑いのとり方も独特で、振りかぶった大ボケではないので観ている側は一見そこに笑いがあることに気付かず見過ごしてしまう。僕はカウリスマキのユーモアは戸惑いの笑いであると思っていて、たとえば誰かの発言に対して「え、こいつなに言ってんの?」と感じたときのその場にいる全員の戸惑い。戸惑いから生まれる静寂。発言した本人は自信あり気な表情。残りの全員は考えている、「これ、ツッコんでいいのか?(でもたぶん駄目だ、時間が過ぎ去るのを待とう......)」。そのときの様子を伺うような表情・空気でカウリスマキはこちらを笑わせる。

 思えば、僕は明るさを持ち合わせた暗い作品が好きだ。明るくて明るいまま終わる作品ははじめから興味を持たない。暗くて暗いまま終わる映画はわざとらしい悪意を感じて好きにはなれない。後者の例で言えば『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なんか最悪だった。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をはじめとするラース・フォン・トリアー監督作品や、ネットでよく目にする残虐性・鬱要素を売りにした漫画の広告を見るたびに思うけれど、作者は作品の中でいくらでもキャラクターをいじめられるし、どんな手段でも殺せる。そのことを観る側はもう少し意識したほうがいいと常々思う。過激な描写が面白いのは当たり前で、じつは平凡な日常から真新しい面白さを探し出して切り取ってくる方が創作としては難しいのだ。

 物語の持つ暗さと明るさについては色々と思うところがある。それをこれから書くのではあまりに今回のnoteは長すぎるので、だから、二週続けてamazonからの引用になるが、島本和彦が90年代に描いたSF漫画『ワンダービット』1巻の紹介文がよかったので代わりにそれを記して締める。

島本和彦が1992年、月200ページを超える多忙な時期になぜか始まってしまった「漫画誌じゃないパソコン専門誌での連載漫画」。主人公のちょっと怪しい科学者「首藤レイ」が様々なSF的なシチュエーションに登場して解決したり失敗したりします。当時流行っていたオムニバスSF短編物のTVドラマやビデオソフトがことごとく…なんでもかんでも悲劇的なラストになって終わってしまってて、結構納得いかなかったことが多かったので対抗し、たとえSFでもやる気があればハッピーエンドになるんでもいいんじゃないのか?アンハッピーエンドは可能性の放棄ではないのか?というスタンスで描かれた作品集の1冊目です。

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 カウリスマキ監督作品はあと『真夜中の虹』『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』『コントラクト・キラー』を観る予定。

 そしてタイミングよく今日、長嶋有が最高の解説を書いている伊藤たかみの『ミカ!』を読み終えた。『ミカ!』に『ライ麦畑でつかまえて』のような良さを感じたのは僕だけではないはず。


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