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中二、ひとり途中棄権

 太宰治の『人間失格』を読んだのは中学二年のときで、まず意外だったのはタイトルでくだされた判定がなんだか過剰に思えたことで、つまり、僕にとって主人公・大庭葉蔵は失格ではなかった。ほかに失格と言われるべき人間はもっといる、と十四歳のときにはもうすでにそうした存在を知っていた。

 そしてこの感想は僕固有のものではないと信じる。多くの人が読後、大庭葉蔵に失格の判定を与えなかったはず。

 客観的に見て失格ではないその人格に対して「失格」という不当な判定をくださなければ、自分の生きている現実を解釈できなかった。そんなところにきっと太宰治の悲しさがあるのだろう。

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 こうして書き出してみれば自分が太宰治の性質に共感しているようだけれど、しかし僕は太宰の熱心な読者ではない。むしろ真逆の人間だと思っている。それは『人間失格』を読み進めていくうちに分かった。

 太宰治は日本で最も暗かった人間のひとりとして知られていて、だから『人間失格』を読む気になったその人は試算として、いま自分が抱えている暗さを太宰と比較したいのだ。自分は人間失格なのか、と。

 誰よりも暗い気持ちを抱え込んでいる気になっていた中学二年、新潮文庫のオススメを紹介する小冊子に書かれていた「この主人公は自分だ、と思う人とそうでない人に、日本人は二分される。」というフレースを読んで、「俺は太宰側だ」とほくそ笑みながら手に取って読んでみたら、食い違いを感じたのだった。太宰治は自分とは真逆の人間だ。そして、太宰治を好きな人も。

 どのような部分が、という細かな説明はここでは省くけども、真逆と言っても、まったく理解ができない他人ということではなく、S極とN極のくっついて重なった部分のように、対極にあっても共有できる暗さはある。だから時折、思いを馳せる作家ではある。

 仕事のことばかりで埋め尽くされて、もう昔の出来事や自分自身について考えられなくなった頭で、冒頭に書いた『人間失格』を読んだ初めての感想を思い出したのは、翌日の納品に向けて車に荷物を積み込もうとしていたときのこと。台車を引いて会社から出たところで、駐車場までのルートに人が重なって歩いていたので、その人が通り過ぎるのを玄関口で待っていたら、後ろから「手伝おうか」と事務さんが声をかけてくれた。どうやら事務さんの視点では、僕が大きな荷物を不安定さゆえに動かすことができず立ち往生しているように見えたらしく、帰ろうとする前に手伝ってくれようとしたのだ。

 甘えることもできたけれど、僕は他人の力を借りるのはまず自分で試してからと決めているので、その申し出を断った。いやいや、○○さんはすぐに帰ってください、と。会話は笑いで終わり、事務さんは帰って、ひとりで無事に荷物を積むこともできた。けれど、その後で、もう少し爽やかに断れないもんかねえ、と先の出来事を振り返らずにはいられなかった。

 普段の関係性があるから、ああいう言い方を、自分の意図した通りに事務さんは笑いとして受け取ってくれたが、声音でふざけてはいても、人によっては親切心をスパリと無下にされたと感じられる言葉ではある。「気持ちは嬉しいですが一人でも大丈夫そうなので」と感謝の一言を添えられないものか。しかし、人に嫌われたところでどうでもいい、と割り切って自分の態度を改めなくなった人よりも、まだこうして自己反省することができている分、自分には人として救いがあるのかな、とも考えた。客観的に見て失格ではない人格に対して、自分は「失格」という不当な判定をくだしてしまっているんじゃないか?

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 いまは、自分はこんなにも傷つきやすい性質に生まれついたのだから傷つけないでくださいと撥ねつける人ばかりで、その言葉が他者を傷つけていることも知らず、知っていても自分以外の人間は傷つけてもいいのだとなぜか他人の気持ちは寵愛しないそんな人たちばかりで、僕は、そんな人たちよりも、無防備に泣いて、ひとりで消え入りそうに悲しんでいる人に惹かれてきたし、そういう人にこそ無限の優しさが降り注がれたらいい、と心から思う。誰にも伝わらないし、伝わってほしくない反抗の気持ちを込めて。

 いつの間にか大庭葉蔵と同い年になっていた二十七歳、まだ中学二年生のときと同じように怒り、泣いている。

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