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「“まだ自分の生まれていない時代”が懐かしい」とはどういう感情か?

「この映画はタランティーノによるシャロン・テートへの愛あふれる蘇生行為である」だとか、「“ありえたかもしれないもうひとつのハリウッド”を提示したからこそ、このタイトルなのである」だとか、そういうタランティーノの意図や作品の本質に迫ろうとするレビューは腐るほどあるので、僕は自分の感慨を記述することにただ努める。

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『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』。この映画で「懐かしい」と感じる場面があった。この映画が扱っている1969年のアメリカのことを、90年代に生まれた僕が経験的に知っているわけがない。だけどなぜか、ブラッド・ピット演じるクリフがトレーラーハウスに帰宅するシーンで懐かしさを感じた。 

 僕はどちらかと言えば昔の映画や音楽が好きなので、ベトナム戦争、ヒッピーやウッドストックを象徴とする60年代の時代感がまったく分からないわけではない。でも、自分が存在していなかった時代について懐かしく感じるのはいったいどういうわけなのか。

 最初は帰宅シーンを、クリフが仕事終わりに映画を観に来たのかと勘違いしたのだが、クリフの住むトレーラーハウスはドライブイン・シアターの敷地内にある。そのドライブイン・シアターに車で入っていく場面で、ああ、こういう場所ってあったよね、と僕は懐かしさを感じたのだった。まるで自分が行ったことがあるかのように。そして、すぐに「今だったら苦情が来てダメだろうなあ」とも考えた。

 そこで僕はなぜ懐かしさを感じたか。それはきっとこの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が60年代を追憶するために撮られた映画だから。観ているうちに人々は自分の追憶のスイッチを無意識下で押されてしまう。

 もともとタランティーノは自分の好きな作品のオマージュを散りばめてひとつの映画を創り上げる作風。そしてタランティーノが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に散りばめたのは60年代への愛だった。看板のネオンが次々と点灯していく描写もそのこだわりのひとつだろう。郷愁を込めて撮られたスクラップブックのような内容に感化されて、僕はありもしない懐かしい記憶を引き出された……「車に乗ったまま映画を観る時代があった」「僕はその時代を生きることはなかったけど、そこで楽しんでいた人たちがいたことを知っている」「そこで人々が感じ取った楽しさは、何十年が経ってもこの世界から消えることはない」「人々がこの世界に残したその陽気を少なくとも画面越しに僕は感じ取ることができる」「だから、その楽しさを知る僕はあの時代をまるっきり知らないわけではない」、そういうことではないか?

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 1969年のときにタランティーノは6歳。だから60年代について正確な記憶があるわけではないと思う。そこで記憶の穴を埋めるために(これは憶測になるけども)タランティーノは60年代の映画、60年代についての映画を貪るように観まくった。そもそもシネフィルと呼ばれるほどの知識が元からある。60年代を生きた誰もが「ああ、あの頃ってこうだったよね」と感じられる雰囲気を『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』がまとうことができたのは、その映画知識の乱獲による。

 新旧の映画に詳しいタランティーノがそうであるかは分からないけれど、現代人が60年代や70年代といった昔の作品を貪るように観はじめる理由。それはきっと「今の時代についていけない」という思いが強いからだと僕は思っている。少なくとも僕はそうだ。

 ドライブイン・シアターのシーンで懐かしさを感じたあと、僕はその懐かしさを打ち消すように「今だったら苦情が来てダメだろうなあ」と考えたのだった。「じゃあ実際におまえが近くに住んでみたら?」と言われて現実的な問題を突きつけられたらそれまでなのだけど、一旦そういう反論はおいといて(というか、そういうまだ言われてもいない反論を予想しながら書き進めていかなきゃいけないこの事態が「今の時代についていけない」の一因になっている)、大スクリーンの前にずらっと車が並んでいるドライブイン・シアターの光景はすごくいいものだ。車一台一台は現実を載せ、その車に向かってフィクションが垂れ流される。みんなは映画を観たり観なかったり。その光景がいい。だからその光景が、その文化が、すぐに苦情の殺到する今の時代にはもう成立しないことが寂しい。

 なんというか身近な例で言えば、電車の中で赤ちゃんが泣いていたら顔をしかめて「ガキって嫌いなんだよね」と言える人がいて、しかも結構いて、なんかもう僕はそういうことを平然と言える感覚が分からない。僕たちも小さい頃は泣いてわめいて、それを周りの人たちに見守られながら大きくなってきたんじゃないのか? 

 僕たちは威力のある苦情を簡単に言えるようになった。でもそのかわりになにを放棄したのか?

 もう僕は、寛容さを失い、反射的に相手をたたきのめす人がたくさんいる(ように見える)そういう時代についていけないから、過去の作品を観て、今とは違う価値観が存在していた“あの時代”に共感する。それがたとえきらびやかな一面しか見えていないのだとしても。そこから感じられるのが偽りの懐かしさだとしても。

 僕はいろいろな作品に触れて厭世的になるだけだが、タランティーノはただ漁るのではなく策略的にエンターテイメントを仕上げる。それが単なる映画好きと鬼才の違いなのか。

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