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ミドリの森」6 ミドリ  「ウソツキドリ」

(連作ですが、1話ずつ読めます)


「ウソツキドリがさ、いつのまにか、ここからいなくなったんだよね」
ヨリ子ママが自分の胸に指をあててそう言った。指のあいだからタバコの煙がふわっとひとすじ昇っていく。

ミドリ以外の客はいない。カウンター席もたったふたつのボックス席も空っぽだ。
仕事の帰りに滝のような夕立が降ってきて、折り畳み傘では肩もくるぶしもずぶ濡れになった。それでこの古びた店に飛び込んだのだ。

より子ママは痩せぎすで、きついパーマの髪は明るい。皺だらけの顔なのにつけまつげだけが異常に元気だ。もう何十年この店を続けてるんだろうか?
順番にカラオケを入れて、記憶にもないような古い曲を歌う常連客も今日はいない。
新しいボトルを開けて、口数も少なくウィスキーを飲む店内には、外から聞こえる滝雨の音しか聞こえなかった。

「ウソツキドリ?」
「そう、ウソツキドリ。今思うと、あれはウソツキドリだったわ。いたときは、なんにも気付かなかったけどさ」
「勝手に、よりママに嘘をつかせてたってこと?」

より子ママは、深く煙を吐いた。

「まあ、そういう感じかな?」
いや、ちょっとちがうかな? そう言いながら、勝手にウィスキーを足して、大きな氷をぽんといれる。
氷は大きすぎて、グラスがなみなみになる。まあ、いいか。これくらいだと薄くならない。

「ウソツキドリがずっとわたしと男を喰いちらかしてたのよ。気づかないうちにね」

こんな男とやる気なんてない、って思っててもさ、気がついたらやっちゃってんだよね。
誰でもよかったわけじゃなくって、でも、雷に打たれたみたいになってさ、電気が走ってどくどくするの。
だからわたしは、人を好きになるときって電気が走るもんだって思ってた。
こころって頭じゃないんだ。こころはこころで勝手なことするもんだって本気で思ってたの。
でもそうじゃなかった。

今になってわかるわ。
あれはウソツキドリの仕業よ。

きっと、いろんな見えないところを喰いちらかしてたんだろうね。
ちょっとした隙に、なんかどうしようもなくなって、悲しくなったりするの。ほんとに好きかどうかわかないんだけど、もっとわたしを見てほしくってズキズキしたり、もう、いてもたってもいられないくらいになって、なんで閉店まぎわに帰っちゃうの? 最後までわたしといてくれないのは誰かのところに行くから? ってふつふつ腹がたったりしてさ。帰るってのを、鍵閉めて押し倒したこともあった。結局待ちくたびれた女がやってきて、ドアバンバン蹴たくって、それどころじゃなくなったんだけどね。
伝票だって、ずいぶん書き換えたのよ。今考えると笑っちゃうけど、きらいな男の伝票に好きな男の飲んだ分をつけていったりするのよ。
でも、そんなことしたって一緒、ウソツキドリは勝手に飽きて、勝手にどこか行っちゃうの。

ある日、羽振りのいい男が、単なる見栄っ張りの浪費家に見えたりするの。
横顔のきれいさに惚れたはずなのに、なんだろ、このナルシストって思ったりしてさ。
すーっと、冷静になると、みんなつまんない男で。
もうどうでもよくなっちゃうの。自分でもびっくり。
ウソツキドリがいなくなると、なんの感慨もわかないのね。
なんであんなに好きだったのに、こんなに見下してしまうんだろう? あの気持はどこに行ってしまったんだろうって、もうさ、愕然よ。

そのうち、ウソツキドリはわたしのところにはもう戻ってこなくなってしまった。
いなくなったら、よくわかる。
さみしいもんよ。
もう、あんなに怒ったり悲しんだりしなくていいんだもん。
ほら、ここに来る人たちってさ、みんな大昔の恋の歌を歌うじゃない。
あんなの聞いたってさ、ああ、この歌作った人たち、みんなウソツキドリにやられてたんだね、とか思ってしまうだけなの。
平和っていえば平和なんだけど。
なんか、毎日が平べったい感じになっちゃったのよ。

ミドリはロックを飲み干した。ほとんど溶けていない大きな氷だけがグラスに残った。
「ちょっと待って」って、より子ママは洗い場に入っていく。
「干し魚を焼いてあげる。ウソツキドリの好物よ」
台所から声が聞こえた。

ミドリはもう一度LINEを見る。
既読がついてるのに返信はない。
「雨がひどくて、ひとりじゃ帰れない。迎えにきて」
もう一度メッセをいれる。
今度は既読はつかない、いつまでたっても既読がない。

ボックス席に移動して電話を入れた。
15回まで数えた。

「明日は早いんだ。もう、寝てたよ」
男の声がそう言った。
「もう、飲み過ぎて歩けない。ねえ迎えにきてよ」
今度は沈黙。

そして男は電話を切る。
だけどミドリは知っている。
断れない男なのだ。

「迎えにこないと、隣にいる男とやっちゃうよ」

LINEにそう入れる。
既読はすぐにつく。
男はベッドから起き上がり、服を着替えて、車を出すだろう。
わたしがゆっくりと薄手のコートをはおる間に、男が支払いを済ませてくれるはずだ。

家にあげて、抱きついてしまえばいい。
でも、その頃には、記憶の一番奥にある、誰にも言えない嫌悪感がわきあがってきて、またわたしはセックスを拒んでしまうのかもしれない。

ウソツキドリはずっとわたしの中にいるんだろうか?

目をつむると、そこには暗い沼があった。
泥沼だ。
わたしの足はいつも膝まで泥沼につかったまんま。だからまっすぐに歩けない。
そしてウソツキドリも男も、みんな泥沼に足を救われて身動きが取れなくなってしまうんだ、きっと。

何日か前、ミドリの仕事場のロッカーに「うそつき」と書いてあった。
ひきずるような血の文字にゾッとした。
消去法で考えれば、それが誰の仕業かなんてすぐわかる。

そしてゾッとするような血文字のカラクリも思いの外かんたんにわかった。
使用済みの生理用ナプキンがロッカーの前に転がっていた。

ねえ。人を恨んだりできるのはけっこうまっすぐなことなのかもしれないね。
恨まれたって、わたしが傷つかない。
誰かの恨みや怒りまで、わたしは引き受けられないもの。

もっともっとこわいのは自分だ。
どこまで壊れていけば、生きるのをやめられるんだろうか?
そう思いながらわたしは今も生きているんだよ。

より子ママが干し魚を焼いてもってきてくれた。
つまんで口に入れられるくらいの小さな干し魚だ。

その魚に手をつけようとしたら、ドアが開いて、傘を折りたたみながら男がようやくやってきた。
「なんだかいい匂いだね」
そう言って男はにこやかに笑った。


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