詭弁家の話

なんでそれを買ったのかは忘れた

『新・書物の解体学』(吉本隆明著:メタローグ) まず、えらいスカした名前の出版社である。まだ存在するのだろうか。 そして著者は、戦後を代表する知識人な上に吉本ばななの父という吉本隆明だ。吉本ばななとは、口当たりの良い本を何冊か出版している人である。なんだかんだで私も『哀しい予感』(角川書店)『とかげ』(新潮社)は読んだ。ただ、それを読んだ記憶はあるものの、内容に関しては一切覚えていない。 吉本隆明氏に関しては、雑誌や新聞のコラムを読んだことがあったが、著書を読むのは今回が初めてである。小林秀雄級の難解な批評が展開されていたらどうしようと思ったが、それは完全に杞憂であった。冒頭に「ジジィの読書感想文をまとめたモノ」(注:意訳)と断り書きがあり、実際に平易な文章で書き綴られていた。 ただ、違う意味で小林秀雄よりも難解で、私は読むことを諦めることにした。

イデオローグを玩べ

とりあえず、彼はどんな本もそのイデオロギー立場からか「権力と民衆」の二項対立でしか物事を捉えないようだ。それが『古事記』であろうが『限りなく透明に近いブルー』であろうが関係ない。 そんな書評の中に、私が息子の名前に一字拝領した詩人、木山捷平の名前があった。木山氏はイデオロギーの埒外にある作家で、気取らない市井の感覚を鋭く表現したことで知られる。詩集『野』や『メクラとチンバ』のくだらなさと味わいは他に例を見ない。中原中也などと同様に教科書に載せるべきであると私は思う。 木山氏に関しては、さすがの吉本氏も左翼的解釈ではなく、排泄を通じた生物への率直な情愛云々(木山氏の詩にはよく「ウンコ」が出てくる)とゴチャゴチャしょうむないことを述べている。同意も反対もできないようなくだらないジジイの感想であった。 しかし、『大陸の細道』という長春からの引き揚げを描いた短編小説にさしかかるや否や、「巨きな影(原文ママ)」とそれに反抗する主人公がどうのこうのと言い始めた。私は『大陸の細道』は読んでいないのだが、木山氏の長春に関する作品はいくつか読んでおり、そのどこにも吉本氏が言うような「権力と民衆」を感じない。確かに、市井の感覚として「お上はどんくさい」などという場面はあるが、それは少なくとも作品の主題ではない。第一、木山氏が「権力と民衆」に立拠した作家であったならば、私はそれを読んでいない。 二項対立という切り口による解釈は吉本氏の芸風であり、それについてとやかく言うべきではないのかも知れない。そういう意味で、この本は吉本氏のフォロワー以外が読む本ではなかったのかもしれない。とにかく、ブ厚いこの本は私の中で「ゴミ」と判断するに至った。

いつかきちんと読めたらいいな

ゴミついでに言うと、書評の中に『宗教の理論』(ジョルジュ・バタイユ著:ちくま学芸文庫)があった。この本も私が「ゴミ」と断ずるに些かの躊躇も持たなかった名著である。 彼らのイデオローグを弄ぶ似非学者ぶりは、はるか太古にソクラテスが批判した「詭弁家」ってこんな人たちだったのかなァと思える。

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