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名前をつけて2週間。穏やかに、そしてゆるやかに交差する恋心。

 この世に美しい恋愛なんて存在しないと思っていた。人と人とが感情をぶつけあって、燃え上がって、そして灰になった気持ちが風にさらわれて消えていく。
 そういうものを、「恋」と呼ぶのだと思っていた。

 私と彼の関係に名前がついて、2週間が経った。 

 私には年下の恋人がいる。
 彼とは、1年ほど前に知り合ってから「気のおけない友人」で、ここ数ヶ月よくゲームや通話をする人だった。

 私と彼は、とても不思議な関係だった。友人ではなく、恋人でもない。お互いが好きなのは知っていた。彼は、私が好きだという恋愛相談を私にしてくるような人だった。

 いつからか「好きだよ」が気軽に言えなくなって、いつからか「好きだよ」の代わりに「たすけて」と言われるようになった。
 この関係は底に穴の空いた舟のようだね、と囁き合ったりもして。だからといって私たちは関係に「恋人」という名前をつけようとはしなかった。

 私も彼も、関係に名前がつくのを怖がった。
 私たちは似た者同士で、お互いに恋愛にいい思い出がなかった。他人に大きなこえで言えるような素敵な恋愛を、してこなかった。

 私には、友人に伝えていない恋愛がいくつかある。大学生の時に付き合った彼氏について、私はいないものとして扱って生きてきた。ろくな思い出がない。誰にも「彼氏がいるんです」なんて言いたくなくて、いないことにしていた二人の男性に申し訳ないという気持ちすらない。
 ただ、私は24歳の5月になるまで、彼氏のいない枯れた女子大生であり、彼氏のいない社会人だった。そういう女を演じていた。

 彼もまた、過去の恋愛に翻弄されてきた人だった。優しすぎて、我慢しすぎて、どうしようもなくなって破裂して傷ついて。
 ひとつ前の恋愛がひどく彼を傷つけていたから、私はその傷が開かぬようにただひたすらに話しを聞くことしかできなかった。

 お酒に溺れて泣きそうな彼に、夜になってふと前の彼女について話し出す彼に、もう嫌いだと喚く彼に、本当は好きで忘れられなくて傷つけられて空回りしてしまう彼に。私は優しい言葉をかけることもできず「どうしたいの?」と聞くことしかできなかった。

 何がきっかけだったのかすらわからない。ただ、私と彼はずっと静かに言葉を交わすことしかできなかった。
 お互いが人には簡単にさらけ出せない傷を抱えていて、そしてその抱えたものを私と彼は共有していた。

 傷の舐め合いなのだと思う。これまでもこれからも、私たちは過去の傷を舐め合って恋人であり続ける。

 私と彼が「恋人」という名前をつけた日、4時間かけて恋愛相談から告白まで至ったあの明け方までの時間を私はきっと忘れない。
「たすけて」という悲痛な声と、切ないくらい怯えた声で紡がれた「……好きです、付き合ってください」にこの人を傷つけたくないと思った。

 私と彼の関係に「恋人」という名前がついて2週間。「好きだよ」も「大好き」も溢れるくらい言葉にして、はたから見たらバカップルだって言われるようなことばかりしている。
 それでも、ふとした瞬間に私と彼は過去の傷をそっと取り出して見せ合うのだ。

 私の背中にあるもう見えないくらい薄くなった火傷の痕。彼の元カノの荒れたSNSの投稿。周囲に言えないままの関係。あなたに素敵な人が見つかると怖いから、とねだった恋人の証。好きでもない人と「恋人関係」だった、消したい過去。

 彼はいつも「ゆきさん、好き」と口にする。「好きだよ」と返して「幸せだね」と笑っている。抱きしめたいし、抱きしめられたい。会いたいし、手を繋ぎたいし、言葉を交わしたい。

 2人で「思ったことはちゃんと言葉にして伝えようね」と約束した。彼は優しいから、自分の気持ちを我慢してしまう。そんなことはさせたくなかった。
 ただ、穏やかに日々を生きていて欲しい。願わくは、その側に私がいたらいい。

 夜、眠る前に「おやすみ」と言う。無機質なスマートフォンの向こう側から、穏やかな寝息が聞こえてくる。
 朝、繋がったままの通話の先で彼のアラームが鳴る。しばらくして起きるには早すぎる私のアラームが鳴って、彼が駅に着くまでの十数分、起き抜けのぼんやりした頭で私は彼とお喋りをする。
 毎日、ほとんどの時間を共有して話すことなど無くなっているのに、私は彼の生きる音に幸せを感じている。

 ホームに電車が滑り込む音。軽快に鳴る朝のメロディ。「電車、きたから」と静かに告げられて「いってらっしゃい」と言葉にする瞬間がとても幸福だ。
「いってきます」と告げられて通話が切られたあと、私は少しだけ幸せに微睡んでいる。数分後にアラームが私を現実に戻して、そしてその頃にはホーム画面に通知がひとつ。

「おはよう。二度寝せずに、ちゃんと起きてる? 今日も、頑張ろうね」

 日によって内容は違ったりするけれど、毎日のように
「いってきます」と「いってらっしゃい」を、
「頑張ってね」と「頑張るね」を、
「お疲れさま」と「ありがとう」を、
 続けている日々が泣きたいほど幸せで、胸が苦しくなる。

 こんなにも、恋が穏やかだと知らなかった。
 知らなければよかったなんて言わないけれど、知ってしまった責任をとってと縛ってしまいたい。
 恋愛とはもっと平坦なものだと思っていた。「好きだよ」と返すのは義務だと思っていた。言いたくてたまらなくて溢れてしまうなんて、こんな気持ちをどうしたらいいかわからない。
 わからないから「わからない」といって「ちゃんと言葉にしようね」と私と彼は言い続けている。

 穏やかなまま、恋心が交差している。燃え上がる気持ちもなく、ただひたすらに静かに、ゆるやかに幸福を抱き合っている。

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