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その切っ先はどちらを向いているのか

胸の真ん中を、鋭い刃で一突きにされたような気がした。
その人の言葉は、ただただ論理的かつ簡潔で、ナイフのような鋭利さと冷たさを感じさせた。

会社での日常の一コマだ。私は部署の人たちに向けて、とある方針を提案していた。意見を募っているページに、熟練の先輩がサッと書き込みを残した。それは私の提案を真っ向から否定するものだった。

ビジネスにおいて、余計な修飾語の多い言葉は、互いの理解を妨げる。そうわかってはいるものの、私を気遣うような柔らかさがなく、真っ向から反対するその人の言葉に、息の止まるような思いがした。

意見を否定することは、胸をナイフで一突きするがごとく、その人の存在を否定し、消し去ること。無意識のなかに、そう刷り込んでいるから。


子どもの頃、母の意見がすべてだった。彼女に反論したら最後、怒りを持って私の存在はなぎ払われた。その場にいることを許されていないような居心地の悪さを感じながら、ふてくされた亡霊のような気持ちで、ただ母の後ろ、鋭く光るナイフの後ろを、トボトボとついて歩いた。

私はずっと知らなかった。意見と、それを持つ人の存在は、全く別物であることを。
意見が否定されても、存在が否定されているとは限らないことを。


会社で私の意見をバッサリと切ったあの人は、私に向かってその刃を振るったのではないのかもしれない。私の横に立ち、同じ課題を見据えて、それに向かって刃を振るったのかもしれない。あるいは、その人も怯えていて、身を守るつもりで、こちらに向かってナイフを振り回しているのかもしれない。

冷たくて鋭い刃は、どこに向かって振るわれたものなのか。それは誰にもわからない。ふるった本人すら無自覚かもしれない。


その人の意見は鋭かった。私を委縮させ、存在を否定された亡霊にできるぐらい、十分な威力を持っていた。

でも、私はそう解釈しない。その人はきっと私の横に立っていて、課題という大きな敵を相手に一緒に戦ってくれている。そう信じることにした。

最後まで読んでくださってありがとうございます! 自分を、子どもを、関わってくださる方を、大切にする在り方とそのための試行錯誤をひとつひとつ言葉にしていきます。