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これから、猫と彼女と 2

  少し先を歩いている主婦らしき女性のバッグから、財布が落ちた。主婦は気がついていない。悠太は、逡巡したままその財布を眺める。
(どうしよう)
 いや、どうしようじゃないだろう、と、もう一人の自分が突っ込みを入れる。悠太は慌てて財布を掴んで叫んだ。
「あのっ!」
 主婦は、びくりと体を震わせて振り返った。その様子に、声が大きすぎたと、ひどく反省をした。相手は不審者を見るような目だ。
「財布を、落とした……ようです、が」
「あ、あらっ」
 主婦は自分のバッグを見た後、慌てて悠太に頭を下げる。
「すみません。ありがとうございました」
「い、いえ」
 主婦は何度も、悠太に感謝を述べる。
「気が付かなくて……本当に助かりました」
 悠太は、胸の奥が温かくなる。
 お礼にと、少し現金を渡されても、ここは男らしく「そんなことは気にしなくていいんですよ」と言ってやらなくては。主婦は、頭を上げて、悠太に向かって言った。
「それでは、失礼します」
「……あ。はい」
 去っていく主婦に、悠太は曖昧な笑顔を浮かべたまま見送った。
 別に、見返りなんか期待していない。だから、何の問題はない。なのに、どうして、認めてもらえないような苛立ちが沸くのだろう。
 何かが、自分を試しているのかもしれない。そして悠太はまた思う。
(ちっちぇなあ)
 悠太はその日、早めにベッドへ潜り込んだ。
 転職については、一旦、考えるのをやめることにした。一人暮らしの部屋に戻ったら、急に冷静になってきた。家賃だって毎月支払わないといけない。今の職場は、給料は少し良かった。
 ふて寝とは、リセットボタンを押すことだ。リセットボタンを押すことで、何とか生きながらえている。

    *
 
 のらりくらりと、いつもと同じような日を過ごす。しかしその日は、珍しく心穏やかなまま、退社ができた。珍しく残業もなく、定時で終わった。五月の風も、さわやかだ。そんなわけでなんだか体も軽い。
 その時、何かの鳴き声が聞こえた。悠太は立ち止まる。鳴き声の姿は見えない。
(猫だ) 
 どこかで仔猫が鳴いている。親とはぐれたのだろうか。悠太は歩きながら、辺りを見渡す。声が近くなってきた。足を止めると、その姿を見つけた。建物と建物の間の狭い隙間。そこに置かれた段ボールの中に、その仔猫はいた。
「……まじか」
 これは、どう見ても捨て猫である。
 小さな白黒模様の物体が、悠太に懸命に訴えている。生後二か月くらいだろうか。子供の頃、猫を飼っていたので、なんとなくわかる。
 にゃあにゃあと鳴く甲高い声は、悠太の中で、助けてください、助けてくださいと、変換される。
 見つけてはいけないものを、見つけてしまった。それでも、悠太の手は、すでに仔猫を撫でていた。このまま放置することは、できなかった。
 悠太は、仔猫を抱きかかえ、部屋に連れて帰った。そして、急いで近くのホームセンターに向かい、猫飼育一式を買いそろえた。
 その仔猫は、腹が減っていたのだろう。レトルトパウチを与えると一心不乱に食べた。その後、悠太の部屋を探索し、安心したのか熟睡してしまった。
 タオルを敷いた箱の中で、眠っている子猫を見ていると、つい目尻が下がってしまう。仔猫は雌だった。保護した時は、貰い手が見つかるまで、と思っていたが、いつのまにか、仔猫の名前を考え始めている自分に気が付いた。
 額がはち割れだから、はっちゃん。
 悠太は、自分のネーミングセンスに、小さく笑った。
 子猫に向かって「はっちゃん」と呼んでみると、少しシッポが揺れた。なんだか、悪くなかった。
 はっちゃんとの生活は、突如として始まった。


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