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131. 僕と、信仰と、アイスホッケー

少し前に、スポーツ総合誌のNumberさんに投稿されたこちらの記事が話題になりました。

こちらは、「信仰がサッカーに与える影響」について、元プロサッカー選手で現在はコーチとして活動されている中野遼太郎さんが書かれた記事です。

この記事を読んで僕もいろいろと考えるところがあったので(というより、前にこのテーマについて考えていたことがあったので)、今回はnote下書きに埋もれていたこちらの記事を引っ張り出し、「僕と信仰」をテーマに改めてお話していきたいと思います。初めて皆さんに伝えることもあるんじゃないかな。

それではよろしくお願いいたします。

日本と海外での宗教に対する価値観の違い

「宗教」という言葉を聞くと、どうしても、胡散臭い、堅苦しい、怪しい、怖い、といった感情が出てきてしまう方々は決して少なくないのではないでしょうか。自然にこういった感情が湧いてきてしまうのは、やはり宗教がらみの問題や事件などが取り上げられることも多いからかもしれないし、もしくは国内には多くの無宗教(無信仰)の方々が一定数いることも関係しているかもしれません。「宗教」を信仰していること自体がある種のタブーのような雰囲気があり、例えばどんな宗教を信仰していたとしても、それを周りにカミングアウトすることに抵抗を覚える日本人の方は、事実として結構多いはずです。

一方、海外では、「宗教」というトピックに関してはとってもオープンな人達が多いです。現在生活しているアメリカで言うと、僕の周りでもクリスチャンの方々の割合が圧倒的に多く(チェコもそうだった)、また、キリスト教を信仰すること自体がとっても身近なものなんだなあ、ということをつくづく感じます。

例えば、周りにみんながいる状態であっても試合前にロッカールームの中で片膝をつきながらお祈りをするチームメイトがいたり、クリスチャンの元プロアイスホッケー選手を呼んでチーム全体にお話をしてもらう事があったり、クリスチャンのアスリートを取材するメディアがあったり、「今日の練習のあとbible study(聖書の勉強)行く人ー?」と気軽にいう人がいたり、ツイッターやインスタグラムのプロフィール欄に自分がクリスチャンであることや聖書の中の言葉を書いている人が多くいたりなど、とにかくみんなオープンです。もちろん人によっ信仰の度合いは違うとは思いますが、アメリカで生活をしていると、日常的に「宗教」(キリスト教)というものが溢れているんだなあ、ということは何度も確認できます。

おそらく海外留学あるあるの一つである、外国人から「君は何の宗教を信じているの?」という問いに対して日本人が「無信仰だよ」と伝えたときに、相手が驚く(というより不思議な目で見られる)ことは、実際にあると僕は思っています。

どちらが良いとか、「日本もアメリカのようにオープンになるべき」とか、そんなことは全く思っておらず、僕は単純に日本と他国によって信仰に対する違いがここまで出てくるのは非常に面白いことだと感じています。もちろんこれには時代背景や歴史、自然崇拝や国民性などが大いに絡んできていることだとは思いますが、この点に関しては僕が詳しく伝えられるところではないので、ここからは僕自身に焦点を当ててお話を進めていきたいと思います。(以上、毎度おなじみの長すぎるイントロダクションでした)


僕の信仰

ここからがいよいよ本題です。(お待たせしました)

僕は、天理教を信仰しています。

そして、最初に言っておきますが、僕は皆さんに天理教を宣伝したり無理やり勧めようなんて気は全くありません。ここから話すのは、あくまで僕がどのように信仰しているかであり、僕自身のパーソナリティの一部をお話するだけですので、心配せずに聞いてください。

さて「天理」と聞くと、ラグビーや柔道の強豪である天理大学を思い浮かべる方もいることでしょう。他には日本史の教科書でちらっと見たことがある人たちがいるかもしれません。

天理教は、奈良県天理市に本部を持つ宗教団体です。

以下、天理教ホームページに掲載されている文章をそのまま載せます。

天理教は、江戸時代の天保9年(1838年)、教祖・中山みきによって始められました。現在、日本国内を中心に、約1万6千の教会があります。信者数は200万人を数え、その教えは海外80カ国に広がっています。
天理教信仰の中心は、親神・天理王命(おやがみ・てんりおうのみこと)によって人間創造の地点と教えられる聖地「ぢば」です。奈良県天理市に位置し、天理教教会本部の神殿と礼拝場は「ぢば」を取り囲むように建てられています。

出典: 天理教・初めての方へ(https://www.tenrikyo.or.jp/jpn/

聖地とされている天理市の「ぢば」はこんな感じです。とっても立派な建物が立ち並んでいます。天理市にはこのような昔ながらの建築雰囲気を残してる建物がたくさんあるので、現地に行くと、少しタイムスリップしたかのような印象を覚えます。

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天理教がいったいどういう宗教なのか、気になる方もいるかもしれないのでとっても簡単に説明をさせていただくと、世界中の人々が互いに助け合い、ともに喜びながら生活をする「陽気暮らし」の実現を目指している宗教団体です。よく、仏教と同じくくりにされることがありますが、実は違います。

ものすごーくざっくりライトにお話すると、天理教は一神教で、この世界を創ったとされる親神様が当時「中山みき」さんという女性に入り込み、この方を通してその教えを広めていきました。天理教では中山みきさんのことを教祖(おやさま)と呼びます。以上が簡単な説明です。

もし僕が天理教を一言で表すならば、「人助けの教え」といった感じでしょうか。

信仰することになったきっかけ

そもそもなぜ僕が天理教を信仰しているかというと、元々は母方のおばあちゃんが信仰していたことがきっかけでした。僕の場合、信者というよりは、「おばあちゃんや母が信仰していたからなんとなく一緒に教会に通っていた」というのが正しいかもしれません。

実は僕は中学3年生まで鼓笛活動(マーチングバンド)を行っていたのですが、それは本芝房鼓笛隊(ほんしばふさこてきたい)という、僕の通っていた教会の中にある音楽団体で、「教会に行って鼓笛をして、その合間に天理教について少しずつ学んでいく」というような日々でした。何も考えていなかった当時の僕の感覚からすると、音楽を習う場所がたまたま教会だったという感覚です。ちなみに鼓笛の練習は毎週日曜日が基本で、僕はこの時もバリバリアイスホッケーを続けていたので、なかなか鼓笛の練習に参加できなかったり、せっかく練習しても試合と重なりフェスティバルや発表会に参加できないなんてこともたくさんあったのですが、それでも必ず、合間を縫っては教会に行き、参拝をしていました。

ちなみにこのことについては、「神様貯金」というタイトルで前にnoteにも書いてあるのでもしよければそちらも読んでみてくださいね。(文末にリンクを貼っておきます)

さて、僕が天理教を信仰しているとカミングアウト(?)したことで、皆さんは何か僕に対する見方は変わったでしょうか?中には、がっかりしたり少し驚きを感じる方もいるかもしれません。もしそうなったとしても、それは個人の捉え方次第なのである程度は仕方ないのかなあと、思っています。

実際のところ、宗教、信者、入信、参拝とか、こういう言葉が並ぶとどうしても胡散臭く感じてしまったり「なんかやばそう・・」って思う人たちもいるはずです。それは防衛本能として、決して間違った感情ではないと思います。

ただ僕がこのnoteで一番伝えたいことはここからです。

僕にとって信仰とは、心のよりどころであり、このような心の居場所を持てることは本当にありがたい、ということです。

自分の行動の根底とか、人と接するときに心がけていることの基礎となる部分は、天理教から学んだことがかなり多いし、今でも自分が生きていく上で大切にしているモットーはこの信仰からきていることもたくさんあります。

困っている人を助けるとか、ごみを拾うとか、物を大切にするとか、喜びを見つけるとか、周りに感謝するとか、親を大切にするとか、そういったことを「当たり前のことだ」と今僕が思えるのはきっとこの信仰があったからだし、僕はそう思える自分自身のことを誇りに思っています。僕がとっても大切にしている「節から芽が出る」という言葉も、元々は天理教の言葉です。

アイスホッケーに通じることもたくさんあります。怪我をしたときでも前向きでいられたり、チームの勝利のために献身的になれたり、なんとか味方を助けたいと自然に思えたり、チャンスを外したときに人のせいにしなかったり、自分が決めたときに周りに感謝できたり、そもそも試合が出来ることや自分が今この場所にいられることに対して、いつのまにかありがたみを感じることが出来ている自分は、信仰心を持ち続けてきた事と確実に関係があると思います。

「困った時の神頼み」ではないけど、「もう自分じゃどうしようもできねえ」という状況になった時でも、「神様がいるからなんとかなる」という、ある種の精神的な支えが残されている自分は本当にラッキーだなと思います。

そういった意味で、「信仰」が僕自身に与えている影響は大きいと思っています。

最後に

僕は、天理教という宗教を信仰していることを誇りに思っていますが、だからと言って、この宗教が全部正しいことを言っているかというと、そうではないとおもっています。きっと、端から見たら「なんだそれ?」と思われることもたくさんあるだろうし、僕自身も「ここは変えてもいいんじゃないかなあ」と感じる点はいくつかあります。

天理教の言っていることが絶対に正しいわけもないだろうし、「天理教以外の宗教はすべて間違っている!」なんて思うこともありません。教えや大切にするものは人それぞれ、宗教それぞれで違うわけで、どの宗教にも良いところと悪いところはあるものではないかと思っています。

ただ、一つ事実として言えることは、僕の周りの天理教を信仰している人たちは、みんな本当に優しくて、常に周りの人の幸せを考えている人たちばかりです。そして、本当に温かい。それこそ、鼓笛を通して出会った友人たちも素晴らしい人達ばっかりです。きっと彼ら彼女らは一生の仲でいるだろうし、やっぱり学校とかスポーツの友達のつながりとは、また少し違った形なんだろうなあ、と思います。また、例えば初めて出会った人と話していても、「あれ、この人もしかして天理教の人かな?」と感じることもあり、後になって聞いたらやっぱりそうだったなんてこともあります。不思議なことではありますが、その人の態度や行動から、なにか共通点として浮かび上がってきているものがあるのかもしれません。

そしてもう一つは、この「教え」を知ることで僕の人生は確実に豊かになっているということです。他の人からしたら「そんなのこじつけだろ」と言いたい気持ちも出てくることもあるかもしれないのですが、天理教の教えは本当に素晴らしいものが多いなあ、とフラットの目線に立っても思うことがよくあります。(他の宗教を学んだときにも同じように感じることはよくあります)

自分が生きていく上だったり、人と関わる上での大切なヒントや考え方を教えてもらえることが非常に多いので、オフシーズンに日本に帰った時は毎回教会に行って自分の話を聞いてもらったり、逆に色々お話してもらっています。

「私は~年間信仰しているから偉い」とか、例えば「~円つぎ込んだから救われる」とか、そういったものではなく、純粋に自分と向き合う気持ちを作り出してくれる教会は僕にとってやっぱり特別な場所だし、この信仰心というもの自体が僕を常に支えてくれているんだろうなあ、と感じています。海外に出てからは特にね。

先ほども言ったように、このnoteを書くことで僕は天理教を宣伝するわけでも、皆さんを勧誘するつもりも微塵もなく、あくまで僕の人間性を表す上での大切な一面として見てもらえたらいいなあと思います。

宗教の話はとってもナイーブな面があるかもしれないけど、今回の話を伝えたことで、これからの僕の行動が何か変わることもないし、皆さんに特別に「こう見られたい」と思うこともありません。

それでも、信仰というものが、天理教というものが、「三浦優希」を形作る上で絶対に欠かせないピースであることに間違いはありません。この「支え」に僕はこれまで何度も助けられてきたし、これからもこの「支え」があったからこそ乗り切れる瞬間が出てくると思います。

僕は、神様はいると信じています。厳格な人からしたら甘い考えといわれるかもしれないけど、僕は、人それぞれが違う神様を信じても全然いいと思っています。大切なことは、どの宗教を信じるかとか、どの教えに反対するかとかではなく、自分の心の拠り所を持つことだと思っています。

今回も、最後まで読んでいただきありがとうございました。



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