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主軸とは何か

ここのところ、いくつかのプロジェクトが並行して進んでいる。その中で感じたことを備忘録的に書いていこうと思う。全く関係ないようで、少しずつ関連しているような気はしている(備忘録とだけあって、乱筆乱文)。

これを書こうと思ったきっかけは、友人で美術家の永岡大輔さんからの連絡だった。永岡さんは、今はなきトーキョーワンダーサイト時代からの友人で、兄のように(勝手に)慕っている、尊敬するアーティストである。

そんな彼から連絡をもらったのが数週間前。「今カッセルにいるんだけど、作品に使える音楽ありませんか」とメッセンジャーで連絡が入った。永岡さんには、これまで何作品か音楽提供をしているし、ぜひ、ということで作品を幾つか送ったのだった。

「カッセル」そうか。今は、ドクメンタの時期か。その時、そう気付いた。ドクメンタは、インドネシアのアートコレクティブ、ルアンルパがキュレーションを行っているということで話題になっていた、ただその程度の関心ではあった。

永岡さんの作品が上映されてから、彼がやっている活動やドクメンタのことを、グルグルと考えていた(そして、まだそれは着地していない)。

そんなことを思いながら、同時期にお誘い頂いた「後藤天選曲演奏会〜編んで座って歩いて」のための作品を改作しているわけだが、どうしてもカッセルのことが頭から離れない。欧州の、それもメインの芸術祭を非西洋人がキュレーションするとは、どういうことなのか。

音楽でいえば、日本のどこの音楽祭も西洋の作品、西洋のアンサンブルやオーケストラをメインに据えることで漸く体裁を整えているというのに? それは、わたしが身を置くジャンルで可能なことか?

可能なケースもある。一時のダルムシュタット夏季現代音楽講習会では、日本が特集され、非常に多くの日本人作曲家の作品が演奏されていた年があった。もしくは、伝統芸能を絡めた作品が欧州の主要なコンサートホールで演奏されることは考えられるし、実際能楽者の青木涼子さんがケルンフィルハーモニーのメインポスターとして、街の其処此処で大々的に宣伝されている事例などもあった。ただ、果たしてそれは「カッセル」と同じケースだろうか。

日本人として西洋音楽を創作することについて、もう何千回と聞かれてきて、その度に考えこむ。そしてわたしは、いつもこう思う。
「そのように聞かれるのは何故か」
わたしが西洋人でないから、そう聞かれるのだろうか。はたまた「そこに理由がある」「理由があって当然」ということなのか。日本にいて、「なぜ日本人なのに西洋音楽を書いているのですか」と聞かれることは少ない。大抵は、西洋人から尋ねられる。「自国の文化を大切にする姿勢」「日本には古来から美しい文化があるのになぜ」色々な視点があると思う、ただどれもピンとこない、これを聞かれることがどこか腑に落ちない。

腑に落ちない、喉に魚の骨が挟まったまま、選曲演奏会の準備をしている時に、後藤さんがこんなことをおっしゃった。今回のコンサートで後藤さんは、「日常の何気ないものに着目し、創作をしている作曲家を選曲」したらしい(その枠組み内で、拙作を取り上げてくださることになっている。後藤さんの言葉は意訳)。

このふんわりとしたコンセプトと、わたしが求められる日本人が西洋音楽をやる確固たる「理由」は、全くもって真逆のものだろう。日常の何気ないふとした瞬間を提示できるのは、ある種の「日常」という概念が共有されているマジョリティ内のことではないのか。特別でもなく、意味も特にない、わたしの日常を取り上げることは、西洋音楽を書く理由には決して成りえない。でもそれはなぜ?

永岡さんは山形に雑草研究所を作り、研究をしている。これは彼が長く取り組む「球体の家」のプロジェクトから恐らく派生したもので、前に伺った個展でも、雑草について熱く語ってくださった。
雑草という存在は、決して雑なものではなく、人間の営みの中で勝手に線引された植物たちの、メインではないとされた「生き物」の総称である。メインではないから、どこでも「不必要なもの」とされ、引っこ抜かれてしまう。うちの亡き祖母がよく、「おじいちゃんは、雑草と花の区別がつかないで、全部抜いちゃうから困るのよ」と言っていたけど、それも一理あり、雑草と名がついたものの中にも美しさがあり、その区別(差別)は元来はないものだと思う。

話が前後してしまって申し訳ない。一旦、後藤天さんの選曲演奏会の話に戻る。

「非西洋人が西洋音楽を書くこと」
「西洋文化を非西洋人がキュレーションすること」

それは、もしかすると不必要なことなのかもしれない。自国の文化を自分たちで耕し、たまに異国でそれを披露し、名ばかりの交流をする、それが人が思う本来の文化の形であり、誰も傷つけない方法かもしれない。ただし、その必要・不必要を決めるのは誰だ。植物たちは自ら雑草を名乗り出たりはしないだろう。ジャッジする権利のあるものだけが、何かを区別し、そこに特権を与える。非○○になったマイノリティには特別な理由なしに、その世界に組み込まれることはない。勝手なものである。

こんなことを思いながら、またカッセルについて考えている。わたしが数年前からキュレーションということに携わっているということもあるからだろうか。キュレーションなんて、マジョリティの誰かがやるものだと思っていたけど、チャンスを頂いたのでチャレンジしている。毎回リサーチしながら、世の中にはこんなにおもしろい作品がたくさんあるのか、と思い知らされる。欧州のフェスで取り上げられるような作品にも注目しているが、それをどう切り出すか、その切り口にも工夫が必要だ。単に西洋の現代音楽祭の焼き増しだけは避けたい。

マイノリティを経験したからこそ、見える切り口があるはずなのだ。独自の視点や、日本初の〇〇ではない、メインストリームなんてないっていうこと、単にそれを知っているかどうか、それが重要だと思う。それを知らずに、文化をパッケージ化して建て売りするようなことはしたくない。

メインストリームはない、ただそこに日常だけが並列されている。個々の日常に価値を置ける人は、その重要さを知っている。非日常的に日常を体験した人だけが日常に触れ、そこにある大切な何かに気づく。日常はきっと本当は、特権階級だけのものじゃない。

創作するとき、キュレーションするときも大事にしたいことは、非日常の視点を持って日常を見ているかどうか。言い換えるならば、多様な価値観が複数存在することを経験的に知っているかどうか。

その意味で、後藤天さんの選曲演奏会で、ただの日常がどう炙り出されるかとても楽しみであるし、これからのキュレーションや創作における自身の、自身に対する裏切りを心から期待している。メインストリームなどないということを知り、そこに横たわる既存の価値概念をぶった切るような感覚を味わってみたいと思う、そこではきっと西洋/非西洋もなく、あらゆるボーダーは消えていくんじゃないかなと予想している。







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