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わかってもらわなくて本当にいいのかどうか

現代音楽といわれる分野は難解である。一般的な感性から遠い。

日本における現代音楽の文脈での「わかりやすい」が時に批評的に響くのは、この音楽ジャンルが持つ元来のキャラクター特性なのか。「わかりやすい」「キャッチー」であることが現代音楽上一体どういうニュアンスを感じさせるものなのか。

音楽が言葉をのせるものだった時は、「わかる」ということが必須だった。音楽が言葉から離れて器楽曲として演奏される際も、言葉の意味ではない音楽のわかる化は作曲家による様々な工夫によってなされてきた。

わからないものを系統化して文脈づけしていくこともわかる化への一歩だろうし、同種の文脈内では何かしら「わかる」という感覚がある。コンセプチュアルな作品も従来の音楽の概念で語られにくいと思われるものもリテラシーを持つことで読み解くことができ(その方法は一つでないにしても)、その意味では「わからない」音楽の方が少ないような気もしている。とするならばそれでも尚「わからない」「むずかしい」音楽とは何か。その上で音がまとう矢印について考えたいと思う。

音の矢印

例えば、例として無印の店内で流れるナチュラル系の音楽は記号性を持つものであり、それはナチュラルな生活という資本主義へつながっている。SNSで大量消費されるような音楽も一瞬聴いただけで空気のような記号をまとっていて、何も思考せずにそれを流し込むことに躊躇させない中毒性がある。

このような矢印付きの音楽は、わかる⇄わからない、の思考に入り込む以前に、大きな川に入り込んだ時のように一定の方向へと思考という身体を運んでくれる。自身の筋肉を使うことなく水の流れによって流れ流されていくことで、偽りのエネルギーを感じ取ることができる。音楽には本来こういった娯楽性が宿っている(これを私は極論原発のようなものだと時に感じる。自身の身体的なエネルギーを介すことなく永遠に生み出される偽りの力を音から搾り取るような感覚がある。音を何かのために永遠と消費し続けるような)。

読みかえること

音楽における「わかる✖️わからない」問題は、今やわからせる必要がない、考えることでもない段階にあるのかもしれない。だからこそ、矢印がついた音の矢印についてもう一度違う文脈から読みかえることや、歴史上の重要な人物たちによって文脈づけされしつくしたものたちを、全く違う角度から見直すことが重要な気がしている。わかったふりをしてきた、これまでの長い音楽史に対して自分の筋肉を使って考えていく。

わかってきたものも実はわかってなかったかもしれないし、わかろうとする過程で、矢印が見え始めたとしたら、そっちのほうがもっと大事な気がする。言うまでもなく決してわかってもらうために、大きな矢印にそって音楽を書く必要はない。

そしてわからない、難解だと思われるものは決して伝わらないものではない。わからないことは寧ろ身近な事柄であることの方が多いわけで、ましてやプログラムノートを上手に書くことでもプレゼンテーションの上達度合いでもない。その音楽の本来の形が、もっと言えば、その音楽が持つ矢印性や非矢印性は何度でも形を変えて言い換えることができるはずであり、表現者は、その言い換えに対するあらゆる努力をするべきである。言い換えることで子供にも単純明快に伝わるだろうし、文脈外の人にだって通じるものなんだと思う。何度でも言うがわからないからといって、わかりやすいものに置き換えるのは全く別の行為だ。

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