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受けとる相手のことを考える。

文章を書くときに「である調」と「ですます調」がある。ずいぶんと長い間、特に書き分けを意識せずに、書き出した感じでどちらの方が書きやすいか何となく決めていた。(というか気づいたら決まっていた。今も)

ただ最近書く中で、今日はなんとなくこちらの文体が書きやすいかな、今日はこっちかなと、「意識している」とは言わないまでも、何となく書き分けしているように感じることが多くなった。おそらく目的によって書き分けをしているようで。

自分の感情や思考の整理のために書くときは「である調」になる傾向がある。

誰かに伝えるよりも、自分に向けて話しているような感じ。ひとりごとに近いのかな。あくまで、自分のために書こうとするときは、である調を選んでいることが多い。(もちろん傾向程度なので、例外はある。)


逆に、誰かに何かを伝えたいときは「ですます調」で。たとえば、数日前に書いたこれもそうだった。

文体が入り混じっていて全部がですますではないけれど、~ですよねとか、~だと思います、という表現が多めになっている。

これも意識して書き始めたわけではないけど、今伝えたい内容はこちらの文体を選んだ方が書きやすいぞと選んだらしい。


自分に向けて書くときは、である調。
誰かに向けて書くときは、ですます調。

こんな決まりはもちろんないし、あくまで私自身が無意識にこう書きわけている傾向がある、というだけなのだけど、書き続けないとわからなかったことなので、とてもおもしろい発見をしたなと思う。

どちらの方がいいというのもないし、書く目的に応じて(一つの文中でも)使い分けていけばいいのだけれど、「伝えたい」という思いがあって書こうとするとき(私の場合はですます調)、ちょっと気をつけたいなと思ったことがあった。

それは「押しつけがましくならない」ということ。

語り掛けるように書こうとすると、自分に向けて書くときよりもどうしてもメッセージ性が強くなり、冷静に読み返してみると圧を感じることがあるのだ。

「伝えたい」という思いがあるから当然のことだろう。ひとりごとを言っているときよりも、誰かへ向けた矢印は強くなる。

だけどストレートに伝えたからと言って「伝わる」というものではない。ストレートすぎるメッセージが、逆に受け取りづらい、ということもある。「言ってることはわかるんだけど…ねえ?」みたいな感じで。

正論を言うことはかんたんだ。でも「正論だから」と言う理由で受けとってもらえることは少ないのだろう。正しさを押しつけられて委縮してしまう場合だってある。「正しさ」というものは取りあつかいが難しい。

自分の思いが先行してあれもこれも伝えたいと思ったときはちょっと待って。それは受け取り手が本当に受け取れる言葉や表現になってるのか、あえてはっきり言いすぎずに、読み取ってもらうことも必要なのではないかと、丁寧に推敲したい。

私はまだまだ「素直に書く」「ストレートに書く」以外の技量がないものだから、抜き差しの「抜く」の部分ができるようになりたい。「行間」とか「余白」の部分なのだろう。


あえて言わない、
あえて書かない。
でも何か伝わるものがある。


そんな矛盾をクリアできるような文章が書けるようになりたい。




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