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自信がない時ほど、書いてしまえばいい。

あまり読まれてなく、反応も少ないnoteを見ると、ちょっとざわざわした気持ち、しゅんとした気持ちになる。

「ああ、何が良くなかったのかなあ…」と、ふと考えてしまう。

タイトルがよくなかったかも。
書き出しがよくなかったかも。
表現がわかりづらかったかも。
共感できるような内容じゃなかったかも。

ダメだったかもしれない箇所をあれこれと探してしまう。

そうやってダメなところを探していると、書いたことそのものを否定したくなるような気持ちになる。

でもさ、これはこれでいいんじゃないか。

読んでもらいたいし、反応ももらえたら嬉しいけど、第一読者は自分だ。

タイトルとか書き出しとか、工夫できるところはしたい。
でも内容は別だ。自分が考えて出したものだったら、読まれてなくても、反応がなくても、いい文章だし、書いたことは間違っていない。

というか、正しいとか、間違っているとか、そんな評価はそもそも存在しない。

自分がどう感じたか、どう考えたかなんだから。
それに正しいも、間違っているもない。

書くことは「自分を肯定すること」だと思う。

「肯定せざるを得なくなる」というニュアンスの方が近いかもしれない。


周りの意見や反応が怖くて、「こうだ」と思ったのに意見を引っ込めてしまうことがある。

たとえばTwitterを見ていると、他の人はどう反応しているのか、多数派の意見は何なのかなどを、ついつい気にしてしまう。

他の人の意見を知る前にせっかく何かを思ったのに、「いややっぱり私が考えたことは違うかもしれない」と、なかったことにしてしまう。

でもそれはきっと、誰のためにもなっていない。

なかったことにする前に、感じたことや考えたことを思い切って書き出してみると、「書いちゃったからな…これはこれでいいよね!うん、そうだそうだ、私はこう考えたんだ!」って、肯定する以外に道がなくなる。

書いている間は少し不安。
やっぱり違うかもしれない。
やっぱり引き返そうか。

頭の中のそんな声を聞きながらも、「いやいや違うなんてない」「むしろ違うことの何が悪いんだ!」「私は書きたいんだ!」と最後まで書く。

そうすると、無条件に自分を肯定するしかなくなる。

ちょっと無理やりかもしれない。
でも、書いた文章を肯定できるようになれば、書かなくても自分の考えを肯定できるようになると思う。たぶん…

少なからず私もコツコツと書くことを続けてきて、これまで書いた文章をふりかえると「心強さ」みたいなものを感じる。

これだけ感じて、
これだけ考えて、
これだけ書いてきて。

だからもっと自由に感じて考えて大丈夫だよって。
そう言ってもらえているような気がする。

自信がなくなっている時ほど、書く。

エネルギーは必要だけど、書いた後は逆にエネルギーをもらえると思うんだ。


そんなわけで、今日はここまで。

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