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"いつか誰かに届いたらいいな"という気持ちで。

noteを書き始めたころ「多くの人に読まれたいなら、ターゲットを明確にしましょう」というアドバイスをよく見かけた。

誰に向けて書くのか。
どんな人に読んでほしいと思うのか。

対象を決めて、それに向けて書くことは、メッセージの届け方としては正しいのだと思う。ただ私は、対象をうまく決められなかった。

初めは子どもや教育に関する記事ばかり書いていたので、親御さんや、先生?いやいや、普段子どもに関わりのない人にこそ読んでほしい気持ちもあるしなー、、と。


そして今はテーマを決めずに書くようになり、さらに対象はわからなくなった。

とりあえずまずは、自分のために書く。
その延長線上で、誰かに届いたらいいな、というくらいの気持ちで、書き続けている。
だから対象は、はっきりしないまま。


でもね、対象を決めるか決めないかは、どちらでもいいのかもしれない、と思った。

それよりももっと、大切なことがある。
「世界は贈与でできている」という本を読んで、それに気がついた。

からっぽだと自覚するところから文章は始まる。
それで正しいんだよ。
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「自分はからっぽ」ということは、今自分が手にしているものは一つ残らず誰かからもらったものだ、ということです。
他者からの贈与が、自分の中に蓄積されていったということです。


これは本の「あとがき」に載っていた部分。本の終息に向かう部分で、ぐわっと心をつかまれるとは思っていなかった。


本当にそうだなぁと。

私はからっぽで、私の言葉を作っているのは、私ではない。

これは決して、自分を卑下しているわけではなく、他の人からこれまでもらったものの大きさ、多さに気がついたのだ。


私のnoteを読んで「良かったです」「届きました」と何らかの好意的なコメントを寄せてもらえることがある。でも私の言葉は、他の人からもらったものがまざりあって、できている。

もらったのは、直接的な「言葉」だけではない。

勇気とか、励ましとか、優しさとか、目には見えないものも含めて多くのものをもらっている。
それがまざりあって私ができて、そのおかげで言葉を発せている。


贈与は返礼として始まる。


私はこれまで、多くのものをもらってしまった。

だからこそ今度はそれを、別の誰かに渡したい。
いつか、どこかで、誰かが、受け取ってくれたらいいなという"宛先がはっきりしない手紙"として。


もしかしたら、誰にも受け取ってもらえないかもしれない。

受け取ってもらえるのは、ずっとずっと先かもしれない。

もしくは受け取ってもらえたのに、すぐ忘れ去られてしまうかもしれない。

でもふとしたときに、思い出してもらえるかもしれない。


私ができることは「届いたらいいな」と願って書くこと。
ただそれだけなんだなぁと。


もちろん「自分のため」に書くことを捨てるわけじゃない。それはそれで、やっぱり大切にしたいという気持ちがあることも、事実。

でも「もらったものに気づいた」上で書く言葉は、気づく前よりも少しだけ、誰かに届きやすくなるのかもしれない。
言葉が、ひらく、というか。



本全体を通しての感想は、また改めて書きたいと思います。(ただわりと根幹にふれてしまったなぁ…)




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