見出し画像

言葉と関わりながら、生きていく。

「甘太郎は、太郎に甘い。」

このコピーをどこかで目にしたことはあるだろうか。

これは「甘太郎」という居酒屋チェーンが「名前に太郎が付く人を割引する」というキャンペーンに対してつけられたキャッチコピーだ。

2012~2013年ごろに行なわれたものらしい。

わたしは目にしたとき、思わず笑ってしまった。

キャンペーン内容を見事に言い表していることはもちろん、たとえば子どもについついおもちゃを買いすぎてしまうお父さんに「も~、あなたはいつも甘いんだから。」みたいな、若干の皮肉がありつつも、どこかあたたかみのあって笑える、そんな情景がうかんだからだ。

あの時、心をつかまれた。

これを目にしたのは、阿部広太郎さんが書いた「心をつかむ超言葉術」という本。

もうすでに読んだ方も多いかもしれない。

わたしがこの本を手に取ったのは、阿部さんが講演された時の記事をたまたま目にして、この本のタイトル通り「心をつかまれた」からだ。

その時のわたしは、書くことが好きで、もともとは自分のために書いていたけど、「読まれないと意味ないのかなあ…」と葛藤も抱えていた。
それでいくつかライティング系の講座を受けてみたりもしたけど、「こんなタイトルをつければ読まれる!」というノウハウ系の紹介が続き、「う~ん、わかるけどなんか違うんだよなあ…」と、偉そうに思っていた。

そんなもやもやを抱えていた時に出会った阿部さんの記事。

そこには「第一読者は自分でいい」と書いてあった。

自分が読みたいものを書いていいんだよ、だから書きたいことを遠慮する必要はないんだよ、というメッセージで、すごくうれしくなった。

心をつかまれた、短いwebの記事。

そこから、書くこと、読むこと、そして言葉についてもっと知りたくなり、本を手に取った。

どこまでも深く。

タイトルだけ見た時は、ノウハウ系の本なのかな、と一瞬思った。
でもあの記事に出ていた方が書いている本だから、絶対ただのノウハウ本じゃない。そう信じてページをめくった。そして一気に読み進めた。

この本は、やさしく、かつシンプルな言葉で構成されていて、とても読みやすかった。
そして深かった。
やさしくて深い、そんな本だった。

深さには底がない。どこまで深く解釈できるか、自分のものにできるかは読者次第だとも思った。

書く技術を伝える本でも、キャッチーなコピーやタイトルの付け方を教える本でもない。

「言葉との関わり方」のヒントをくれる。
そんな本だった。

下記は引用ではなく、本が伝えようとしていることをわたしなりに解釈したものです。(ずれてないかな…とちょっとびくびく。)

言葉は、身の回りのいたる所にある。
誰かと話すとき、本や文章を読むとき、書くとき、歌を聴くとき…。
そこには言葉が存在している。

決して特別な人だけが言葉を扱っているわけじゃない。
わたしたちはあたり前のように言葉に囲まれて、言葉と一緒に暮らしてる。

どんな言葉にふれるのか、そしてどんな言葉を使うのかによって、自分や人の意識、捉え方を変えることができる。
良い方に変わることもあれば、悪い方に変わることもある。
そう考えると少々の怖さもあるけれど、それだけに言葉がもつ可能性は限りなく大きい。

だから一つひとつの言葉を大切に、丁寧に扱うこと。
そして、自分なりの「言葉との関わり方」を見つけていってほしい。

引用ではなく解釈です。(2度目)
わたしはこんな感じで受けとりました。
くりかえし読めば読むほど、違う解釈にもなるのかもなあ…。

言葉は、実際に手に取ることはできない。
物質的に存在するものではないから、「言葉と関わる」という表現は、少し違和感があるのかもしれない。

でも、言葉自身にも意志があって、その言葉を使う人にも意志がある。
意志あるもの同士がどのように関わって生きていくのか、というヒントをくれるような本だと思ったので、「言葉と関わる」という表現を使ってみた。

光を当てる角度が少しずれるだけで。

本の中で、特に印象的だった部分がある。(これは引用です)

書くWritingであり、光を当てるLigtingでもある。
----
本当は、世界は歪んでも、輝いてもいない。
淡々と過ぎていく世界の現実を、僕や、あなたが
どんな見方をするかで世界の見え方は変わっていくのだ。
(P.109~110)

そうか、世界の見え方は自分がどこに光を当てるか次第で変わるんだ。
そして書くということは、「光を当てた部分について表現すること」なんだ。

その光の当て方は誰一人として同じではない。みんな違う。
だから同じことについて書いていても、微妙な光の当て方で内容は異なってくる。

他の人の文章は、その人にしか書けない。
自分の文章は、自分にしか書けない。

そう考えると、自分が書いた文章たちが、とても大切なものに思えてくる。

目の前に現れた分身を、大切に

自分が書いた文章って、自分の”分身”みたいなものなのかな、とも思う。

自分の中にある、もやもや、ぐるぐる、ワクワク、じーん…などの感情が言葉になって、目の前に現れる。目の前に出現させる、か。

「ああ、そう思っていたんだね」ともう一人の自分を客観的に見つめることができる。そしてそれを受け入れることができたなら。

受け入れられた分身たちは、言葉として、文章としてずっと残り続け、これからの人生の支えとなってくれるような気がする。

そしてもしかしたら、誰かの人生の支えになることもあるかもしれない。

今の自分にしか出現させられない分身。
今の自分にしか書けない文章。
今の自分にしか出せない言葉。

それらを大切にしながら、これからも自分なりの「言葉との関わり方」を模索していきたいな。

最後にもう一か所だけ引用を。

何者かになりたい、と人は口々に語りたがる。
けれど、なれない。なる必要もない。
本当に納得できる人生を生きるためにも、
自分で問い、自分の答えを言葉にしよう。
あなたはあなたになっていく。
(P.303)

***

この本は、何度でも読み直したい一冊です。
本との出会いに、そして書いてくださった阿部さんへ。
本当にありがとうございました。

そんなわけで、また次に逢う日まで。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?