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言葉とは。

その一言があるだけで、うれしくなる。
心があたたかくなる。
イライラした気持ちが、どこかに行ってしまう。

そんな一言を添えられるようになりたいと、昨日の記事で書いた。

言葉には、人の中にあるドロドロしたものを浄化し、じんわりと満たしていくような力がある。

一方で、その前の記事では言葉の暴力性の話にふれた。

そもそも言葉は暴力である。言葉を伝えることは、相手に何らかの圧をかけていることだから、優しい言葉だって暴力になり得る。

これはnoteフェスのあるセッションで話されていたことだ。
(原文ママではない)

「言葉は暴力」という鋭い言葉が、耳に残る。
体に傷をつけることはないにしろ、言葉の使いようによっては、ずっと治癒することのない、心の傷を負わせてしまう場合がある。

人の心を満たすものにもなるし、傷つける暴力にもなる。
言葉には、いろんな意味での力がある。
一面的ではなく多面的に理解しておくことが想像力になる。

一方、言葉の多面性を理解したうえで自分が何を信じるのか、どんなスタンスを取るのかは自由だ。

「言葉は暴力だ」という側面があることは理解しつつも、でもやっぱり暴力じゃないよね、と信じたい自分もいて。

うーん、言い方が難しいな。
最優先の定義には置きたくない、という感じかな。

向けられる人によっては確かに暴力になりうる。
でも言葉によって助けられることも確か。

僕たちは言葉があることでつながり合える。
僕たちは言葉があることで分かち合える。

阿部広太郎さんの「超言葉術」の中の一節。

言葉は誰かと「つながり合う」「分かち合う」ことの手段だ。

つまり文章を書くことも、つながり合い、分かち合いの手段だと言える。

その先におそらく「伝わった」という状態があり、読み手の心情に何らかの変化が起こる。

できれば、ポジティブな変化が起こってほしい。


先にも書いたように、もちろん「傷つく」ことがあることも理解する。

でもある言葉を受け取ることによってポジティブな変化が起きることもあるのだと信じて、言葉を発していきたい。

誰かの希望になるような言葉を発せられるなんて思っていない。
ただ、そっと背中を後押しすることはできるかもしれない。

そんなふうに、誰かとつながり合い、分かち合えたら素敵だな。


そんなわけで、今日はここまで。



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