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母のことと子ども時代のこと

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夭逝した母にまつわる思い出とか、自分の子どもの頃のこととか。
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母の遺言の手紙

今年の夏、久しぶりに帰省して、実家に置きっぱなしの持ち物を整理してきた。 実家の父はまだまだ元気で今年も富士山登頂を果たしたほどだが、高齢になってきたので、物を減らしたいと言われたのだ。 結婚する時、大概の不用品は処分したつもりだったが、アルバムや手紙などが残っていた。手紙の中には、母が送ってくれたものがたくさんあった。 私が小学生の頃、白血病で何度も入退院を繰り返していた母は、入院が決まるたびに、はがきをたくさん購入して病院に持ち込んでいた。そして、毎日のように四人の娘そ

あゝ青春の正しい夏

先日読んだ本の後書きに「正しい夏」という言葉が出てきた。 それを見てふと思い出した、高校一年の夏休み。あれこそわたしにとっての正しい夏だったと思う。 高校生の時、私は吹奏楽部に所属していた。 吹奏楽経験者ならお分かりと思うが、吹奏楽部にとって夏はコンクールの季節である。 また、私の入学した高校の吹奏楽部は、夏に市内の歴史あるホールを借り切って、コンサートもしていた。 一学期はテスト勉強そっちのけでコンサート曲の練習に明け暮れる。夏休みに入ってすぐコンサートがあり、それからよ

「あなたの話が聞きたいな」と言ってくれる人に出会う

母を亡くしたこと、うつになったこと。そういう過去のネガティブな経験について、noteに書き留めてきた。 書き出すことにはデトックス効果があったらしい。長い間、澱のように沈んでいたものがなくなって、過去の思い出が澄んだ色合いになったと感じている。 たまに振り返って今までの投稿を読むが、正直なところ大変恥ずかしい。ただの不幸自慢じゃないかと冷ややかな目で見て、削除しようとしたことが何度もある。 けれど、消してしまうと、きっとまた澱が溜まる。過去を見えるところに置いておくことが、

翼をくださいに思うこと

子どもたちが『翼をください』を歌っている。しかも気持ち良さそうに。それが耳障りで仕方がない。あからさまに歌わないでとは言えないのだが、大嫌いな歌なのでトイレに逃げ込んだりして避けてしまう。 私が中学に入った時には、母の容態はだいぶ悪化していたが、まさか本当に死ぬとは思っていなかった。それが亡くなってしまい、衝撃的な現実に否応なしに向かい合わざるを得なくなった。 『翼をください』は、中学1年の時に学校の全体合唱で歌うものとして、校歌の次に覚えさせられる歌だった。母を亡くした

妹たちと仲良くなれない本当の理由

【妹3人】対【わたし】の対立構造がある、ということを以前書いた。 対立の理由は『間取りにある』と書いたが、本当はそれよりも大きな理由がある。それは妹たちが私を怖がっていたからだ。この事実に目を背けるのはうそをついているのと同じだ。 中学〜高校時代の私は、家の中では荒れ狂う嵐そのものだった。テーブルをひっくり返し、妹の髪をハサミで切り落とし、頭から食べ物をかけたり、熱々のトーストを顔に押し付けたりした。家にいると、イライラが抑えられず妹たちに暴力をふるった。 亡くなった母

実録!生活習慣はこうやって身につく

お風呂に入るのはたぶん月に1回くらいだった。本を読んだり、テレビを見たり、兄弟で遊んだりしているうちに時間が経ち、お風呂に入らずに寝る。お風呂を思い出した時には入ったが、思い出すのが月に1回くらいだったのだ。 夜になると着ていた服を脱いで、畳んで枕元に置きパジャマに着替える。朝起きたらパジャマを脱いで、畳んでおいた服を着る。毎日その繰り返し。下着はいつ替えていたか記憶にない。たぶん週に1回くらいだったと思う。服は着続けていると袖口は擦り切れてボロボロになるし、全体的にほこり

仲良し姉妹という仮面の下で

よその人に自分の妹の話をすると、「妹さんとは仲がいいの?」と決まり文句のように聞かれる。もちろん「そうですね〜」と笑顔で答える。が、内心では複雑だ。 妹たちは皆、私のことを『姉ちゃん』と呼ぶ。私は長女だからだ。名前では呼ばれない。ところが、3人の妹たち同士は名前で呼び合う。○○姉ちゃんなどと、名前に姉ちゃんを付けたりしない。なぜか。長女としてリスペクトされていたから、だといいのだが、そうではない。 そのわけは実家の間取りにある。私の部屋は6畳の一人部屋だった。ところが、妹

自然を前にすれば人の小ささを思う旅になる

そこにあるのは。 鬱蒼とした森。下生えの笹。 冷たい水が大きな岩の間をすり抜けるように勢いよく流れる清流。その中に潜むイワナとウグイ。 ニホンカモシカのかん高い鳴き声。ツキノワグマのまだ温かい糞。ウサギのコロコロした糞。 ホタル。顔にぶつかるほどたくさんの赤とんぼ。耳をすませば聞こえてくる、天使のようなカジカの声。 色んな色、色んな形、色んな湿り具合のきのこ。いが丸ごとの栗。 はっきりと分かる天の川。たくさんの北斗七星。 父の生まれ故郷は舗装されていないくねくね

お母さんは女神

わたしはある日37歳5か月になり、その日以降もどうやら死にそうではなかった。その時初めて、『母にできなかったことを、わたしは成し遂げた』と思った。 37歳5か月というのは母が亡くなった年齢だ。その時私は思春期の入り口に立ったばかり。親にもなにやら賢しいことを言うようになった、という程度で反抗なんてまだできない頃だった。 母は絶対的な善の存在だった。きれいで優しい母さん。お料理もお裁縫も上手だし、英語が話せてかっこいい母さん。明るくていつも笑ってて、でも涙もろくて、大好きな

手編みのカーディガンは父の宝物だった

「ゆきこ、これ覚えてる?」父がそう言って見せてくれたカーディガンは、私が中学1年の時に編んだものだった。かれこれ30年以上も前だ。大切にしまわれていたらしいそのカーディガンは、かすかに防虫剤の匂いがした。 父は、夏に母が亡くなると、付き添いに病院へ行く必要がなくなり、家に帰ってくるようになった。それまであまり行けなかった仕事上の接待や職場の飲み会などにも行けるようになった。 初めは仕事で忙しくしているのが嬉しそうだった。今まではできるだけたくさん母のそばにいる時間を作るた

不思議な体験その1・死ぬ前の母に会う

夜、玄関の外に誰かが居る。いぶかしんで玄関まで出ると、そこには入院しているはずの母が立っていた。 外出の許可が出たなんて聞いてなかった!驚かせようと思って内緒にしていたのだろうか。何にせよとても嬉しい。 母に、早く中に入ってと声をかける。とにかく家の中に入って欲しい。一緒に明るい部屋で談笑したい。しかし、入れないのか、入りたくないのか、母は悲しそうな顔で頭を横に振る。 家には少し寄っただけで、どこかに行かなければならないのだろうか。どこかに行く途中なのかと訊ねる。けれど

ばあちゃんのこと

ばあちゃんは、 一年中ぴっちりと引っつめた低い位置のおだんごヘア。 かっぽう着のポケットにはクリップ、輪ゴム、小さなネジなど謎の小物がいっぱい。 痒いところも痛いところもオロナインを塗る。 お腹の調子はすべて正露丸で整え、風邪症状は養命酒でやっつける。 母が亡くなり、家事は父方の祖母がしてくれた。成長期の子どもが4人もいると、食事の支度だけでも大仕事だ。隠居生活から引きずり出されたことを恨む気持ちもあったんだろう。私たち姉妹に対し、いつも厳しく批判的で、決して温かい

呪いをかけられたことがある

「頑張れ」は呪いかどうか、という作文を書いた。呪いの言葉だと思っていたけど、状況が変わったら違う意味があったよという話。 今日のは違うよ。呪いの言葉でしかないやつ。 言われたのは、母の葬儀の間。言ったのは誰か知らないおばちゃん。親戚か、近所の人か、とにかく私は知らない人。 母を亡くした4人姉妹の長女の私に、そのおばちゃんはこう言った。 「これからは娘であり姉であるだけでなく、妻であり母でありなさい」と。 そうか、母が亡くなるということはそういうことなのか!よし、お母

呼び名の由来

うっと、という呼び名は小学校の時についた。 名前がゆきこ、なので、ゆっこちゃんと呼ばれていたのだが、ゆっこ→ゆっと、と変化し、しまいには「ゆ」の母音の「う」が残って、うっとと呼ばれるようになった。 うっと、なんてあまり無い呼び名だ。 ゆきこ、から、うっと、を簡単に想像することもないだろう。 だから私はこの呼び名がとても気に入っていて、中学以降看護学生の頃までも新しい友だちに「うっと」と呼んでもらっていた。 さすがに仕事をするようになってからは、職場の先輩に「うっと、