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自然を前にすれば人の小ささを思う旅になる

そこにあるのは。

鬱蒼とした森。下生えの笹。

冷たい水が大きな岩の間をすり抜けるように勢いよく流れる清流。その中に潜むイワナとウグイ。

ニホンカモシカのかん高い鳴き声。ツキノワグマのまだ温かい糞。ウサギのコロコロした糞。

ホタル。顔にぶつかるほどたくさんの赤とんぼ。耳をすませば聞こえてくる、天使のようなカジカの声。

色んな色、色んな形、色んな湿り具合のきのこ。いが丸ごとの栗。

はっきりと分かる天の川。たくさんの北斗七星。

父の生まれ故郷は舗装されていないくねくねした山道を降りた先にある、小さな集落だった。姓はふたつしかない。つまりふたつの家の本家と分家だけで成り立っている集落。

子どもの頃、その場所は遊園地そのものだった。水着に着替えて、浮き輪を持って、ペタペタと川へ歩いていくと、地元の子どもたちが人懐っこい笑顔で「かだれ!(仲間に入れ)」と呼ぶ。地元の子は川の水の緩やかな場所を良く知っていて、危なくない場所で何度も川に飛び込み、水しぶきをあげて笑った。

父がイワナを釣るのを、川に姿が映らないよう注意されながら、じっと見守った。父が山に入り、きのこを採ったり、栗を拾ったりするのに、夢中でついて行った。

集落の道沿いには街灯はほとんどない。夜になれば山は暗闇に沈み、夜と同化する。少し視線を上げればそこには満天の星空。降ってくるような近さで、手の届かない遠さで、星は小さく瞬いている。エレクトリカルパレードに何の感動も覚えないのは、この星空を知っているせいかもしれない。

もう何十年も訪れていない場所。今は、危険な山道は舗装され、ずいぶん運転しやすくなったと聞く。地元の女性が運営するカフェもあるらしい。それでも、いわゆる都会にはない「手つかずの自然」というものが未だに残っているはず。

都会に生まれ育っている我が子たちを、いつか連れていきたい。自然というものの雄大さを前に、自分のちっぽけさに愕然としながら納得する。人間のすることの小ささを知れば、必要以上に不足を感じることはない。それを身を持って知ることのできる場所は、まだある。

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