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2021年8月の記事一覧

野蛮な一様性を武器とする権力者たちが「多様性を愛する弱者」を自称している

 昨日のエントリでは、「多様な価値観を保持する諸集団が相互に交流を頻繁に行うようになると、価値観が異なる人々のあいだでも共有されて交渉や合意形成が可能となる、数値で表せるシンプルな価値の尺度、たとえば金が重宝されることになる」といったところから話をはじめたが、「多様な価値観を保持する集団のあいだでも広く普遍的に通用する価値」というのは、当然ながら金だけではない。たとえば、ECなども、そのような価値、もしくは多様な集団間において共通して機能し得る capitalの一つである。

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私たちの社会からは、どんどん「濃厚クセ強マン」が退場してゆく

「多様性のある社会だからこそ、むしろ金(money)のような数字で表せるシンプルな価値尺度が重宝され、それによる単一の基準に則った評価(序列)が支配的になってしまう」といった話を見かけて、これはおそらくコンテンツ関係についての議論なのだが、同じことは人間のキャラクターについても当てはまるだろうなあと思うなどした。

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「レベル差に関係なく一人一票」の言論空間で生産的な「議論」はできるか

「科学」の定義に関する言葉のやりとりをいろいろ見ていて、参入障壁というか、メンバーの限定がない「議論」の難しさを思うなどした。

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高度に知的であることは、実はとっても「かっこいい」はずだった

「最近の意識高めの高校生が Youtubeのインフルエンサーに影響を受けているぞ! 要警戒!」という話を見かけて、ゆくりなく自分の昔のことを思い出してしまった。私も高校生の頃に立花隆さんとか河合隼雄さんとかの本を読んで、いまの私くらいの年齢のインテリさんなどに、「そんなものを読んで知的なつもりになってはいけない」などと言われたものである。河合隼雄さんはもちろんだが、立花隆さんも先日亡くなっており、「知の巨人」ということで追悼記事がずいぶん出たりしていたから、いまの高校生が立花

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おじさんと希望

 10代のころは何もわからなくて、ただセカイに過敏に反応していた。20代の頃に「言語」の世界を習得し始めて、30代もなかばを過ぎた頃に、やっと「自画像」との折り合いがつき始めた。壊れたバケツも水の中に放り込めば、満たされたことになると知った。もともと人生の進みが遅い類なのだと思う。  気がつくと40代になっていて、鏡に映る自分は、怠惰で図太くて、物憂い世をはかなむ夢のなれ果てだった。勢いと夢、祈りの向こう側に足がついていた。  数日前、学部レベルで人文学をやることに意味が

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「ニー仏シアター」の開幕

「映像作品をオンラインで共同視聴しながら放送主が音声でコメントできるような配信サービスがあればいいなあ」ということをツイッターで呟いたら、Twitchという配信サービスではそれができると教えてもらったので、さっそく土曜日の夜に試してみた。  なんでも Twitchは Amazon傘下のサービスなんだそうで、Amazon Primeの会員であれば、Prime Videoの作品を共同視聴することができ、たとえば映画などを視聴者とともに鑑賞しながら配信者は(副音声のような形で)好

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意見の内容に反対でも、意見の表明には反対しないという当たり前のこと

 なにやらメンタル関係のよくわからない人が炎上しているらしいが、具体的な点についてのコメントはキャスなどに譲ったほうがよさそうなので、noteでは例によって事案それ自体よりも、事案に対する世の反応から窺い知られる構造的な問題のほうについて述べることにする。

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カースト否定というのは実は相当ヤバい話なのだが、案外一般にはバレていない

 SNSなどを眺めていると心が腐海に飲み込まれるので、さっさと閉じて焼きそばを食べ、6kmほどジョギングした。そうして過ごしていれば私の精神はすっかり健康になるが、インターネッツ言論空間から個人的に目をそらしていれば、それが有する社会的な影響力も雲散霧消するというわけではないので、なかなかバランスが難しいところである。  仏教というか、ゴータマ・ブッダについて最近よく考えるのが、彼がいわゆるカーストの身分制度を否定したということである。人がバラモンであるかそうでないかは、生

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「世間から幸せに見えない限り私は幸せにはなれない」という信仰は不幸の元だ

 どうもインターネッツを見ていると、世の中には人間の幸福というものをゼロサム、即ち、ある人がそれを得れば、別のある人はそれを失うような性質のものであると、理解している方々がそれなりにいるように思われる。私はそういう考え方はしないし、またこれが事実と論理に即した理解であるとも思わないのだが、そのように考える人たちからすれば、「誰かの幸福は誰かの不幸」であるということはこの世の真実そのものなのであって、具眼の士である彼/女たちは、その現実を直視しているのだということになるようだ。

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「思い」と「私」を重ねているうちは、人は自由になることはできない

 昨日のエントリでは「自分で自分を肯定するなんてことはできません」ということを書いたけれども、この話は過去エントリも含めて様々なところで既に複数回やってきたし、どうもやけに私はこの問題が気になるらしいということについては、なんとなく自覚があった。  そこでしばらく沈思黙考してみたところ、たぶん私は、「自分で自分を肯定すべきだ」といった主張の背景におそらくある、「自分の心の動き(思い)は自分でコントロール可能である」という、(しばしば無自覚な)前提に対して、違和感があるのだろ

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実のところ、自己肯定感は「自分」がコントロールできるようなものではない

「自己肯定感を外注してはならない」という話を目にして、それ自体にはとくに文句はないのだが、「自己肯定感」を「外注」しないとした場合、どこからそれを調達するのかといえば、おそらく多くの人は「自分で自分を肯定するのだ」といった方向で考えるであろうから、それについてはあまり賛成できないなあと思うなどした。 「しかしニー仏だって、昨日のエントリでは『自分で自分を肯定する』的なことを書いていたではないか」と、(むしろ鋭い読者であるからこそ)お考えになった方もいるかもしれない。しかし、

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