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おじさんと希望

 10代のころは何もわからなくて、ただセカイに過敏に反応していた。20代の頃に「言語」の世界を習得し始めて、30代もなかばを過ぎた頃に、やっと「自画像」との折り合いがつき始めた。壊れたバケツも水の中に放り込めば、満たされたことになると知った。もともと人生の進みが遅い類なのだと思う。

 気がつくと40代になっていて、鏡に映る自分は、怠惰で図太くて、物憂い世をはかなむ夢のなれ果てだった。勢いと夢、祈りの向こう側に足がついていた。

 数日前、学部レベルで人文学をやることに意味があるのか、と煩悶する若者をみかけて思わず独り言で書き残した。

 ""大学において「人文学」を学ぶ意味はどこにあるのか。この問いは難しい。即効性と換金性からほど遠い営みだから。究極的に人文学は「楽しみのため」の学問なのだ。面白いか否か、それが全てである。

 しかし、変なものに興味をもって突き詰めるヤツが現れるとき、それが百年後、千年後に意味を持つこともある。そういう一人の人間の生に収まらない快楽が「学問」または知性の全体にしみ込んでいる。いいかえれば「人文学」は個人にとっての意味よりも、人類=群れ全体にとっての意味を追求する分野である。だから「楽しくない」なら「楽しい範囲」に留めたほうがいい。心身や生活を崩さなくてもいい。草や萌えと一緒で勝手に生えてくるもだと思う。""

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 ここまで書いて、やはりオジサンとして少し言葉を追加したほうが良いように思った。

 ""若い諸君のためにいえば、人生の後のほうになってから「人文学」には意味が出て来る。精確にいえば「意味を深めてくれる」効果が人文学にある。人文学は、学ぶ者の視界を広く高く長く深くして人類が夢みるすべてに到達さしめる幅を持つ唯一の学術分野なのだ。

 自然科学も、社会科学も、南国の天気のように変わる人間の気分や願い、思いを扱うことはできない。テレ・グラフ/フォン/ビジョンを実現した人類が、オカルト的にテレパシー(精神)、SF的にテレポート(場所)を夢見たのは偶然ではない。この人類の願いを取り扱う学術、それが人文学なのだ。

 義務教育を終えて、高校で事象の名前と仕組みの基礎を理解した後、人間の外を扱う「自然科学」、または人と自然の混合物を扱う「社会科学」でもなく、あらゆる知的体系を構築する言語/感情/願い/欲望...、すなわち「人間それ自体」を扱う人文学を学ぶことは、他の二つへの参与とは違って、自分の内側に何度も深く潜り込むような営みがある。

 その煩悶が、やがて人生の折り返しを過ぎる頃に、少しずつ統合的に効いてくる。実際にあと50年は生きないだろう中年になって、そう思う。「人文学」に若き日に取り組むことは、人生に空しさがあることを知ることだ。しかし、やがてその空しさが自身と他者の、または社会や国家、歴史、宇宙のための何かであることを知ることもある。

 人の空しさに足るを知る地点に来るとき、老いたかつての若者の瞳には、自らが想像もしなかった世界の深みと人類進化の果ての先への手がかりが星空のように映っている。

 少々ロマンチックで衒学的、かつ文学的に綴ってしまったが、こういう駄文を量産してしまうこともまた「人文学」の効果だ。もちろん中年の一人騙りに過ぎない。喫茶店で隣席になると悲惨なアレだ。「人文学」を大学で学ぶことに意味があるか。答えは、きっと、そのときが来れば判る、みたいな濁し方になってしまうが、事実、そのときが来れば判る。""

 こんなことを書いた。少々盛って格好をつけ過ぎた気もするしゴマカしもあるような気がする。しかし、友人の批評家・黒嵜想と河原町の星野珈琲で駄弁りながら「おじさんは希望を語ったほうがよい、おじさんは希望になるべき」といった発狂した会話をしたので、それと繋げて、この私的なボヤキを再掲した。

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 おじさんと希望。そのバランスの基礎は、抽象と具体の均衡にある。自他~世界をふくむその複雑さを複雑なままに受容するところに、大人の認識、本来的な「社会」という語の含蓄がある。その意味では途絶えてしまった「2ちゃんねる」には、そういう空気があった。平成おたくゼロ年代2ちゃんねる文体とでもいうべき、裸一貫の言語のみで議論する世界は、日本語から蒸発して久しい。2020年代のいま、振り返って思うと2ちゃんねるとtwitterのそれは似て非なるものだ。

 友人と話した内容は、こうだ。個別具体的な問題ばかり、つまり具体性だけを参照すると、結果的に、それはアイデンティティの権利獲得の上昇運動になる。しかし、そうすると敵は一様になり、固有性はカテゴリーに回収される。安易な敵/味方の区分だけが有効になり、やがてそれは内ゲバへと発展してしまう。

 一方で、抽象性ばかりに目を転じると、結論へと短絡してしまう。統合的な語彙へと益々飲み込まれるようになり、結果、ニヒルな宇宙を自虐しながら漂う病人となってしまう。

 具体性を抽象性に従属させてしまうのでもなく、抽象性を軽んじてしまうのでもなく。複雑なものを複雑なままに、その動態を把握しようと努めるときに、大人の認識や「社会」の姿がぼんやりと表れてくる。

 10代には出来ず、20代では適わず、35才前後、もはや若者ではなくならなければ出来ないことは何か。それは「隣人愛」である。その基礎が、具体と抽象の適切な把握と運用なのだ。大工イエスが33才で十字架で死んだ理由は、彼が説いてなお続けられなかった「隣人愛」を世界に託すために他ならない。

 星野珈琲で駄弁りながら黒嵜想は「2ちゃんねる」隆盛の理由を「中二病とおやじギャグの持つ閉鎖的でニヒルな内向性の自虐による世代をこえた連帯感だ」と指摘した。たしかにそうだな、と思う。一方で2020年代の今、そんな連帯感を考えてみる。日々、美しさと可愛さの熾烈なランキングと苛烈競争にさらされる、人類の大半を構成する女性からすれば、それはただキモイ自画像ではないのか。

 性差の話をする気はない。ただ、多くの男性にとって異性こそが具体性の極致であることを指摘したい。

 おじさんと希望。魔法少女まどか★マギカで描かれたように希望になるか呪いになるか、それはおじさんの素直な勇気にかかっている。鹿目まどかはAvengersも真っ青なサノスを凌駕するスーパーヒーローだった。おじさんの心に残る僅かな純情、魔法少女への願いを身にまとうこと、飛び交うストライクウィッチーズに負けじと自らの光を絞り出すことが希望の行方に関わっている。

 そんなわけで日常は続いていく。終わるまでは終わらない、何でもは知らない、知ってることだけで生活を行くしかないのだ。おじさんがおじさんであるとき、若者は若者でいられるわけだ。そんな光を絞り出すために、十年以上前のニコニコのマイリスを聞いてみた。自然と頬が不器用にゆがんで、効果音がニチャアと挿入された気がした。今日も義務と願いに立ち向かおう。そう思うや否や指が動いて、カタカタカタタッッ、ターンッッ!という打鍵音が聞こえた。

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