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誰にも奢ってもらえなくなって、悟ったこと

今日は私の性格が、歪みに歪んでいた20代半ばの思い出話をしようと思う。

10代後半から20代前半にかけて貧乏で苦労した反動で、その後私は平成の時代に、1人異様なバブル臭を漂わせる成金趣味の女として生きていた。

上京してからその生き様はさらにエスカレート。
「港区女子」なんて言葉もない時代だったが、それこそ間違いなくそんな言葉で定義されるだろう、十番や西麻布住みの煌びやかな友達と、毎晩飲み歩く日々。
(私は目黒区在住だったけど)

「別に大していいビジュアルなんてなくても、若さには価値がある」と思っていた浅はかな私。
今こそ10年限定のボーナスステージ!と言わんばかりに、当時流行りのIT長者やスポーツ選手、何度聞いても怪しい士業系のヒルズ民たちと、日々内容の薄い宴会に興じていた。

財布は出すフリもしない

むろん、女子メンバーはセレブたちの一夜の適当なコンパニオンである。
女子たちもバカではないのでそんなことはわかっていて、別に「玉の輿に乗りたい」とか「彼女になりたい」なんて大それた夢は抱かずに、ただ美味しいものをご馳走してもらって、ゴージャスな体験をさせてもらうのをシンプルに楽しんでいた。

タクシー代の1万円をもらって笑顔で別れたあと、1メーターで降車して電車に乗って帰る。皆そんな強かさと狡さを持って生きていた。

がしかし、こんな生活をしていたら、男女関係においての性格は歪む。
私も付き合う彼氏に奢ってもらうのなんて大前提。デートでは基本財布すら出さない。

いやほんと、モデルや女優級の美女ならまだしも、何一般人が調子こいてんだと穴があったら入りたい。

だが、当時はそれなりのコミュ力と愛嬌、また170cmの高身長とスタイルがあったため(ちなみに今はそこから+◯キロというアラフォーの現実)、それなりに好いてくれる人はいて、それなりに皆甘やかしてくれた。

お金は出してもらってるけど、私だって努力してこのスタイルキープしてるもんね。
男の人が連れて歩きたくなるような、イケてる女子でいればいいんでしょ?
と、自己投資を言い訳にネイルやヘアを整え、ボディコンシャスなミニワンピに13cmヒールで主戦場に向かう日々(だからバブルかよって)

そんなこんなだから、もちろんお金は貯まらないし、大して好きでもない人のつまらない話をニコニコ聞いて…何か今考えると本当に無駄なことをしていたなと冷静に思う。

それでも私は、それが女の価値だと信じて生きていた。
そんなくだらないことでしか、自分の存在価値を感じられなかった。

客単価3,000円の居酒屋で

そんな中、ひょんなことがきっかけで私は今の夫と出会った。
出会って数日後に渋谷でデートをすることになり、その時は「イケメンだし、外国人とのデートも楽しいかも!」くらいの超軽いノリでいた。

むろん人類が未知のウイルスなんかと闘う前の、金曜の渋谷の夜の喧騒はすごい。
スクランブル交差点で揉みくちゃになりながら、私たちはセンター街方面へと足を進めた。

「何食べる?」

そんな彼の質問に私は面食らった。
は?ちょっと待って。予約は?してないわけ?
金曜の夜に???
まず渋谷って時点で大丈夫か?とは思っていたけど、え?まさかだよね。

彼は悪びれる様子もなくフラフラと歩いていき、その辺にある大衆居酒屋を物色し始めた。

…終わった。
初デートでそりゃないでしょうよ。

ここまで来て帰るわけにもいかず、もはや今となっては店の名前も場所も覚えてないが、客単価3,000円くらいの大衆居酒屋で私たちは記念すべき初デートを行った。

もちろん、お会計はキッチリ小銭までワリカンである。

当時の私の価値観からすれば「100%ナシ」事案だったが、あれから数年後結婚して子どもまで設けているのだから、人間は全く不思議なものである。

ワリカンって意外といいかも…?

色々あったものの、その後オフィシャルに付き合い始めた私たちのデートはもちろん常にワリカン。
何なら私は彼の倍くらい稼いでいたので、それこそ奢られる道理は1mmもない。

また当時、彼は絵に描いたような昭和の匂い漂う木造アパートで弟と暮らしており、まぁ本当…調子に乗っているようだが、それまでフェラーリやランボルギーニで迎えに来てもらって、タワーマンションで乾杯して夜を過ごしていた私には衝撃だった。

貧乏学生寮みたいなそのアパートには、お風呂に謎の装置が付いていて、それを回しながらお湯を張る?仕掛け。日本にずっと住んでいるはずの私が見たこともないこのレガシーシステム。
(結局、最後まで使いこなせなかった)

なんだか畳もカビ臭いし、正直その部屋に泊まりにいくのも心から気乗りしない。

また、(これは未だにだが)プレゼントのセンスも皆無な彼。もちろん相手の経済状況を知っているので、私からもおねだりなんぞしない。
何ならデートに行く時も、相手の負担にならないようなチョイスを自ら考え出す始末だった。(ええことやんか)

時に不満にも思いつつの付き合いだったのだが、ある時私は気づいてしまうのである。

「あれ…?ワリカンの方がご飯美味しくない???」

別に大して洒落た店には行ってない。
それでも、本当に好きな人と心から笑いながら食べるご飯は美味しかったし、自分でお金を払うと、不思議な満足感があった。

そして、どんな高級フレンチよりも、彼が一から手作りしてくれたご飯を一緒に食べる方が幸せだった。

これまで、埋めても埋めても広がっていく穴を、また無理やり埋めようとしていたような日々だったが、途端に何だか全体が満たされてしまったのである。

常にフェアであること

順調に交際を続け、同棲を始めてからも、家のお金は全て折半。
これは以前も書いたが、結婚した今でも続けている。食費、光熱費、家賃、子育て費、保険…などの共同でかかるお金は1円単位で私が毎月計算して彼に請求書を発行している。

ずっと彼より収入が多かった私だが、逆に「養う」ことも一度もしなかった。
これは結婚前に夫が言った言葉に、心から共感したからである。

「僕が大事にしたいのは、常にフェアなこと。僕は男だから力仕事もするし、君を守るけど、それは地位的に上にいるってことじゃない。どちらが上でもなく、常にフェアでいたいんだ」

ああ、そうか。
私が望んでいた関係性はこれだったんだ。
やっとパズルのピースが見つかった感覚があった。

どちらかに経済的な負担や、家事や育児の負担がよる関係性はどうしてもフェアさを欠いていく。
もちろん本人たちが納得している状態ならば何ら悪くはない。
ただ、これを上手なバランスで保ち続けるのは本当に難しいのだ。

反面、お金も、家事も育児の負担も全てを「ワリカン」にしてしまうと、その管理がとことん楽なのである。

相手を責めることもできないし、何かを望むこともない。そして変な劣等感を感じることもなければ、気を使ったり忖度しなければいけないこともない。
人にやって欲しいことは、自分でも同じだけやらないといけない

このライフスタイルが、元来ズボラな私にはものすごくあっていることに気がついたのだ。

コミュニケーションというのは、非常にエネルギーを使う。適度なバランスを保ち続けるために、根回しをしたり、勉強をしたり、調整をしたり、そんなのは仕事だけで十分だ。
自宅では何にも考えず、何の気も使わず、ひたすら自堕落に適当に過ごしたい。

フラット化する世界

あれから時代も大きく変わった。今20代の友人たちと話をしていると、極めてシンプルでフラットな価値観を持っている子たちが多いことに気付かされる。

デートではむしろ奢ってもらいたくなんかない。
ゴージャスな体験よりも、キャンプに行ったり、家でNetflixを観て緩やかに週末を楽しみたい。
お金は湯水のように使うのではなく、きちんと将来のために貯めておきたい。
自己投資はジムやヨガ。投資信託でコツコツ貯める。

な、なんてちゃんとしてるんだろう…
私もこんな20代を送れば今頃超堅実なアラフォーライフを送れていただろうに。

多少の羞恥心と後悔を感じつつも、こんな風に時代が変わってよかったなと心から思う。

「男だから仕事で出世しろ」とか「男だから多く払え」とか「女だから身なりを磨け」とか「女だから家庭的でいろ」とかそんな時代は本当に終わりつつあるのだ。

私は昔から仕事はそれこそ"昭和の熱血サラリーマン"並みに頑張る方であり、一度も「養ってもらいたい」と思ったことはない。
それでも「女」であることをもっと意識して生きている時代だった。

建築系の仕事をしていたときは、男性の多い業界な故に「女だからこうだよね」というレッテルを貼られたり、バカにされたりすることもあった。

「お宅と契約して高い金払うくらいなら、Yちゃん(私)にバッグでも買ってあげるよ〜」

なんて取引先の社長の軽いセクハラ発言を、持ち前のホステススキルで笑いに変えていたが(そしてちゃんと契約はもらっていたところが私の図々しいところ)、今考えると本当バカにされてたなと思う。

当時、特に「女だからってバカにして!」と憤っていたわけではない。
「女を使って仕事をするのは絶対に嫌だ」とは思っていたので、服装や立ち振る舞いに「女性」がでないようにはものすごく気をつけていたので、そもそも仕事で上記のようなセクハラを受けることは、かなり少ない方だった。
「女の子なのに根性あるね」という差別発言も、当時は素直にポジティブに受け取っていた。
セクハラなんて私が売上に変えてやる!そんな謎の意思を持っていた。

一方プライベートでは、女である特権を活かしてチヤホヤされたい、いい思いをしたいと思っており、私はその奇妙な矛盾の中で20代を過ごした。

奢られなくなってから

「男だからとか、女だからとか、そんなこと言うの、もう時代錯誤だから辞めようや」と思って生きている今、私は過去の自分の考えをキッパリと否定したい。

性差を意識して生きることで得られたことが、本当にないからだ。
強いて言えば自分では出来なかったような、派手な体験が出来たことなのだろうが、それがあるからと言って何だというのだろう。
そんなこと、私の「幸せな人生」の要件ではないし、コストとメリットのバランスでいうと、非常にパフォーマンスが悪い。
(あ、でも色んな人に会うのと、危ない目にも会うことで人としては強くなったかも。笑)

もう過去は変えられないので、未来に向けて私は軌道を修正する(いや、もうしてるのだが)

20代の馬鹿げた経験は、子どもたちに将来話すネタにして、笑いを取ることに尽力しよう。

ちなみに、男性から「そういう意味で」奢られなくなった今、逆に人からご馳走してもらうことがあると非常に嬉しくなる。

それは性差とは関係なく、友情や励ましなんかの気持ちで、見返りなくプレゼントしてくれているからだ。
逆も然りで、私もそういう気持ちで人に何かを与えるのが好きだ。

ちなみに、
夫のプレゼントのセンスは本当に壊滅的で、とある年の誕生日なんか、「欲しいものないから、強いて言うなら花かな?」と伝えると、花束ではなく何故か数本の切り花を花屋からピックアップ。

私が帰宅すると、テーブルの上にスカスカに生けられた花瓶と、私の好きな饅頭が周りに置いてあり

え?私死んだの??www

と笑い転げたことがある。
センスない。何年経ってもどこまで行ってもこの人にはセンスがない。

ただ、その花は私の好きなオレンジ色だった。
私には、花屋で楽しそうに花を選ぶ彼の映像が容易に想像できる。

オレンジは好きなんだけど、花なら別なんだけどな…実はそれが私の本音だが、何だか私はその気持ちをずっと心に秘めている。

そしてまた、太陽のようなオレンジ色した花で彩られたスカスカの花瓶を心待ちにしているのだ。



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