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週末はいつも山小屋にいます#3 「氷上山/登奈孝志荘」

 カラマツの枯れ葉が積もる登山道を、昨日降った新雪がうっすら覆っている。
 雪の感触を楽しみながら、踏み締めるように登っていく。
 六合目を過ぎると、どんよりとねずみ色の雲が重く立ち込めた南東の空の下に、中心部が更地になった陸前高田の街と湾が見えた。
 あの海岸線の道で有希は東日本大震災の津波に飲まれた。
 しかし不思議なことに、あそこからは有希の存在を感じることはできない。そこに有希はいない。今日はそれを確かめにきた。

 氷上山は標高874.7m。防火の神とされ、豊作と大漁も祈願される信仰の山だ。
 陸前高田で育った人なら、必ず一度は遠足などで登っていると言う。
 海の近くの里山とはいえ、まだ2月の末。八合目を超えると、雪は少し深くなってきた。
風はない。ただ自分の足元から、雪を踏み締めるサクッグググという音が、ゆったりとしたテンポで聞こえてくるだけだ。
 九合目を過ぎるとすぐに祈祷ヶ原。今日は真っ白な雪原だ。
 振り返ってもう一度、陸前高田の海を眺める。
 やはり有希の気配は感じられない。
 雪原には山頂方向からの足跡があった。雪原の外れにある避難小屋「登奈孝志荘」へと続いている。私はその足跡を追うように小屋へ向かった。

 斜め屋根の登奈孝志荘の入口ドアの脇には「Welcome to Tonakoshi Hutte」と書かれた看板の下に鹿の角がぶら下がっている。
 窓のない木のドアを開けると、小屋の中の空気が暖かい。足跡の主が薪ストーブに火を入れてくれていた。
 私は「こんにちは」と挨拶して、少し遠慮気味に離れて座った。
 足跡の主は女性だった。歳は私と同じ五十代だろうか。にこやかに挨拶を返してくれた。
 ショートカットの黒髪にパッチリした目、少しふっくらした頬が可愛らしい。
 薪ストーブの上に大きめのコッヘルを置いて、木のスプーンでゆっくりとかき混ぜている。美味しそうな匂いが手の動きに合わせて立ち上っていく。
 私はザックから昼食のパンを取り出し、コーヒーを淹れるためにお湯を沸かし始めた。
「ちょうど良かった」
 彼女はかき混ぜる右手を動かしたまま、私の方を向いて言った。
「お昼ご飯ですよね?ミネストローネを作ったんですが、食べていただけませんか」
「あ、はい。でも良いんですか?」
「良いんです、作りすぎちゃって。誰か来ないかなーと思ってたところなんです」
 私はコッヘルを出してミネストローネを分けてもらった。
 濃いトマトの香りを感じながら口に含むと、甘味と酸味が口の中いっぱいに広がり、後からやってくるコクが満足感を与えてくれる。
「美味しい」
 思わず言葉が口をついて出た。
「でしょう?夫が遺してくれたレシピなんです」
 遺してくれた、ということは亡くなったということか。
 ボクがそう思って何も言えずにいると、それに気がついた彼女は「あ、すいません」と言ってから言葉を続けた。
「石巻なんですけどね、夫はあの震災の津波で亡くなりました」
 寂しそうな笑顔で自分のカップのミネストローネを見つめている彼女の横顔を見ながら、私は自分もあの津波で妻を亡くしたと言おうと思ったが、なぜか言葉が出てこなかった。
「すいません、初めて会った方にこんな話をして」
「いえいえ、そんなことないです。でもこんなに美味しいミネストローネのレシピって、旦那さんはお店をされていたんですか?」
 彼女は顔を上げ、表情を崩しながら「そうなんです」と言った。

 彼女は美樹と名乗った。
 震災前までは石巻で、小さなイタリア料理の店を夫婦で経営していたという。
 店は繁盛していたが、あの東日本大震災の津波で全てが突然終わってしまった。
 シェフである夫を亡くし、レシピは遺されたものの、店の再建は諦めざるを得なかった。
「それがね、来月の11日、震災の日に再開するんです」
「そうなんですか、良かったですね」
 彼女は「宣伝して良いかしら」と言って、ザックのポケットから店の名刺を出した。
小さな家のイラストがあしらわれたその名刺からは、飾り気のない家庭的な店の雰囲気が伺えた。
「良いシェフが見つかったんですか?」
「はい、まだまだ未熟なんですが。まぁ、息子なんですけどね」

 息子は、あ、蓮っていうんですけどね、蓮は震災の当時、高校一年生でした。
 勉強はできたんですよ。通ってたのは仙台一高で、成績も良い方でした。
 大学はとりあえず東北大学かな、国立なら学費も安いし、なんて言ってました。
 それが、夫が亡くなって、津波にやられた店をボランティアの人たちと片付けてたときに、突然言い出したんですよ。ボクがシェフになってこの店を再開させるって。
 最初は一時的な気持ちじゃないかと思ってたんですが、進学は料理の専門学校に行くって聞かなくて。
 それから東京のホテルで4年、イタリアンの名店で6年修行して、シェフからもお墨付きをもらって、帰って来ることになったんです。

 彼女はそこまで一気に話すと、ミネストローネの最後の一口を飲み干した。
「そうですか。良い話じゃないですか。感動しましたよ」
「ありがとうございます」
と、彼女は少し俯いて言った。
「でも、本当にこれで良かったのかなって、時々思っちゃうんですよね」
「どういうことですか?」
 私はそう返事しながらも、彼女が言いたいことがなんとなく解った。
「あの震災がなければ、夫が亡くなっていなければ、大学に行って、研究者になったり、大手企業で働いたり、海外で働いたり、もっといろんな可能性があったんじゃないかって。まだ若いのに、こんな小さな街で小さな店に押し込めちゃって良いのかなって」
 あの震災がなかったら…。
 それは私も、何度も何度も考えた。
 あの日で人生が大きく変わってしまった人が、どうしても考えてしまうこと。
「実はね、美樹さん。私もあの津波で、この陸前高田で、妻を亡くしたんです」
「えっ」
 彼女は少し驚いたように顔を上げて私を見つめた。
「だから、震災がなかったらって考えてしまう気持ち、解ります。でもね」
 私も彼女の目を見つめて、自分に確認するように続けた。
「あの震災がなかった未来にはならない。当たり前ですけどね」
 彼女は黙って聞いている。薪がはぜるパチパチという音が小屋の中に響く。
「そんな振り返ってしまいたくなる未来の中で、息子さんはちゃんと現実を受け入れて、前を向いて歩いてきた。強い人なんだと思います」
「確かに、そうかもしれませんね」
「それにね、自分が必要とされる場所で、自分がするべき事が分かってる。それは幸せなことですよ」
「幸せ、ですか」
「ええ、今の世の中で、それが見つからずに苦しんでいる人はたくさんいます。息子さんは自分で自分の幸せを決めて、人生を作っていくことができているんだと思いますよ」
 彼女は空になったカップを静かに自分の脇に置いた。
「確かにあの子は、あの震災を恨んでない気がします。前を向いて自分の人生を歩いてる」
「だから、美樹さんが気に病むことはないと思いますよ」
「ありがとうございます」
 パチンとストーブの薪が大きく音を立てた。

 店がオープンしたら、必ず伺いますと言って、私は小屋を出た。
 彼女の足跡を辿るようにして頂上へ向かう。あともう少しだ。
 小屋での自分の言葉を反芻しながら歩く。私は、震災後の未来を受け入れられているだろうか。有希のいなくなったこの世界で。
 雲の切れ間から青空が見え出した。陸前高田の海にも一筋の光が落ちている。
 しかしそこに有希はいなかった。

つづく


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