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「群衆心理」を読んで ~群衆は本能的な人間、野蛮人

学識の高い上司から勧められた一冊。
歴史的な名著とのことで、読んでみると、新たな着眼点を持つことができ、考え方も変えることができた。

「群集心理」を読むきっかけ


先日、私が1on1の時に質問したのがきっかけだった。

集団(群衆)の前で、情熱的な演説型プレゼンをした時、なぜ盛り上がる時とそうでない時があるのか?

自分は人前で話すことは大好きなタイプだ。
よく気持ちを込めてプレゼンをしても、ここでいう”群衆”の気持ちが掴めきれずに上手くいかないことが多くあった。

現状に満足している集団においては、情熱的な演説は効果は少ない。

というのが、上司の意見であった。

仕事の改善といった新しい取り組みは、誰しもやらないといけないとは思っていても、率先して慣れないことをやろうとする人は少ないだろう、とは考えていた。
しかし、その集団の群衆心理という点では考えたこともなかった。
日本では1910年に初めて翻訳されたギュスターヴ・ル・ボンの「群衆心理」を読んで、この機会に基本に立ち返り理解してみたい。


”群衆”は集団精神を持つ

集団が特別な状態になっていることを「群衆」と定義して、それがあたかも固有の人格をもったかのような性質が出現するということ。
この”群衆”に特有な集団精神は、規模を問わず、さまざまなシーンで思いつくことが多い。

群衆に特有な性質の出現
①単に大勢のなかにいるという事実だけで、一種の不可抗力な力を感ずるようになる。これがために、本能のままに任せることがある。

②精神的感染。個人が集団の利益のためには自身の利益をも実に無造作に犠牲にしてしまうほど、感染しやすい。

③群衆中の個人が、単独の個人の特性とは往々全く相反する特性を発揮する起因となるもの。

無意識的活動の奴隷となる。

ル・ボン氏が言う通り、群衆の中の個人は、周囲に人がいるという影響を受ける。その中で出てくる特有な性質は、動物としての無意識的活動になるのだろう。

群衆中の個人の主要な特徴

意識的個性の消滅
無意識的個性の優勢
暗示と感染とによる感情や観念の同一方向への転換

暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向

本能的な人間、野蛮人

吝嗇家を浪費家に
懐疑家を信心家に
正直な人間を罪人に
臆病者を英雄に

群衆は知能の点では単独の人間よりも常に劣る
感情や感情に刺戟されて引き起こされる行為からみれば、群衆は事情次第で、単独の個人よりも優ることも、また劣ることもある。

群衆に対する暗示の仕方如何にかかっている。

群集心理を帯びた集団は、あたかも人格を持った個人のように振る舞う。
それは、本能的な人間であり、野蛮人ということ。
群衆は、幼稚であり、野蛮であり、英雄的にもなれば、残酷な罪人にもなりえるということだ。

人の集団(≒群衆)を別人格と捉えて考えたことがなかったので、非常に新鮮な着眼点になった。

思えば、テロ活動や暴動などは顕著な例だろうし、小中学生の頃のクラスのいじめなどもそうだ。優等生から真面目な人間など関係なく、盛り上がってくると、暗示がかかり感染する特性はあるのだと思う。

原始人の心理
野蛮人や小児のような進化過程の低い人間
群衆の衝動的で、動揺しやすく、昂奮しやすい性質


群集心理は、原始人の心理であり、野蛮人・小児のような幼稚な人間の特性がある。

思い出すエピソードに、社会人になって、人事異動など、自分が思い通りにいかないことがあったりした時、会社という集団を擬人化して捉えて「愛社精神」を裏切られた気持ちになり、会社を擬人化してはダメだと言い聞かせてきた経験がある。会社という人の集団は、冷酷で感情もなく無機質なものに感じられた。
しかし、ル・ボン氏のいう「群集心理」として捉えると、全くもってその特性通りであり、その当時の自分が、群衆心理を理解していなかっただけだということがよくわかった。


※文中の引用は以下書籍より抜粋——————————————————————
群衆心理 (講談社学術文庫) 文庫 – 1993/9/10
ギュスターヴ・ル・ボン (著), 桜井 成夫 (翻訳)


©️Mahalopine




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