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古い商店街に良い思い出が無いわたくしです

シャッター街になってしまった、古い商店街の問題がありますが、それは近所に巨大スーパーが出来たとか、人々の行動様式が変わってしまったとか、そういうところが主に理由とされているようです。

そういう理由もあったと思いますが、私の個人的な感想では

「商店街の店主さん・店員さんが現代のお客さまをナメていたからお客さんが来なくなった」

という部分も大きいのではないかと思っております。

これは、商店街だけの話ではなく、昔からの慣習で商売をしている業界全般にも言えることかも知れません。

メディアなどでは「古き良き商店街」の素晴らしさ・・・的に紹介される事が多いですし、また、実際に「古き良き」部分を活かして成功している所がありますが、「古き悪しき慣習」もまた強いもので、私は子供の頃から商店街で買い物する事が苦手でした。

私は、子供の頃、親に買い物を頼まれる事が多く、また、私は子供の頃からそのようなお使いが好きだったので、良く家から近い商店街へ買い物に行きました。しかし、どうも隙きあらば、ずるい事をして儲けようとしている人が多いように子供心に思ったものです。

商店街で、子供一人でお使いの買い物をすると、だいたい、質の悪いものを渡されたり、微妙に目方が少ない事が多かったのです・・・そんな私なので、この問題に対して、私怨で目が濁っていて、感覚も歪んでいるのかも知れませんが。笑

これは大人になってからでもあまり変わりません。「コイツは騙せそうだ」となれば、彼らはずるい事をするのです。

例えば商店街の魚屋さんで買い物をするとします。

イワシが美味しそうだったので「その皿のイワシを下さい」と欲しい皿を指差して言うと、私が指定したものではなく、質の悪いものをワザワザ選んで、私に渡す。偶然そうなったのかと思い、また行っても同じ事をされる。当然、三度目は行きません。私が料理なんて分からない若い男と(当時)みなしてそうしたのでしょうね。これは肉でも野菜でも同じです。

私は若い頃料理人だったので、食品の良し悪しがだいたい分かりますから、その場で文句を言う事も出来ましたが、なんだか文句を言うのもイヤになるほど下品な行為にウンザリしてしまって、抗議する気にもならなかった・・・おそらく、このお店のご主人に文句を言っても「だったら他所で買えよ(シロウトが分かりもしねえくせしてよ)」なんて態度であろう事は容易に想像出来たので・・・(仕事の仕入れだったら文句を言いますが)

もしかしたら、良い魚が欲しければ、何度も通って常連になれよ、という昔のお寿司屋さんのような態度だったのかも知れませんが、私はそういうお店はプロではないと思っているので、行きません。

こんなパターンも・・・

私がネット上で欲しい食品を探していた時に、商店街が皆さんでお金を出し合ったのか、助成金が出たので作ったのか分かりませんが、インターネット商店街のようなものを見つけました。そこで私はネットショップを使い買い物をしてみました。

しかし、いつまで経っても返事が来ません。

なので、その店舗に電話してみました。

「あのー、そちらの商店街のインターネットのショッピングサイトで、そちらの商品を購入したのですが、二週間経っても連絡が無いんですが」

「は?何?インターネットショッピング?あんた誰?」

「(もう一度、同じ事を説明する)」

「あ、ああ、ちょっと待って・・・(と、おそらくパソコンのメールを調べている)あ、あったあった。すいませんね、気づかなかった。あ、じゃあ、お金振り込んでくれたら送るから」

「はあ・・・それではお願いします」

それから私は代金を振り込み(クレジットカードが使えないので振り込みか現金書留)三日後ぐらいに一応商品は届きましたが、なんだか気分の悪い買い物になりました。

上記はあくまで一例で「こんな不快な事を頻繁に体験した」のです。逆に商店街だからこその良さはあまり体験しておりません。いや、個人的には良さを体験した事がありません。

そんな事をやっていて「お客さんが来ない」「買い物してくれない」と言っても、それは仕方がないんじゃないかなあ、と思うのです。

少なくとも、スーパーであれば、個別包装してあるものから、自分が良いと思うものを納得行くまで選んで買えます。

個人商店でそんな事をしたら、あからさまにイヤな顔をされるでしょう。それはシステム上、仕方がないとしても、どうせ分からないだろうと、人によって態度を変えるのが当たり前、というのは商売人としてどうかと思います。

個人商店だから、顧客にきめ細やかな対応が出来る、というのはその通りだと思いますが、それは、個人商店の主人の資質や才能や性格に、大きく依存するものですから、仮に先代が良い人であっても跡継ぎの人が良い人とは限りません。

上記は食品系ですが、こんな例も・・・

例えば個人の自転車屋さんで、知識があって、腕も良いらしいけども、なんだか面倒くさい性格の店主のお店があったとします。

自転車(いわゆるママチャリ)がパンクしたので、そこで買ったものではないけども、そこから遠くにある買ったお店へは行けないから仕方なく、修理してもらおうと持っていったら、あからさまにイヤな顔をされこんなママチャリはウチでは直さない、ウチは本格的な自転車しか扱っていない、と言われ、そのお店の常連さんも一緒になってバカにしたような態度をして来たら、自転車云々ではなく「困っている人のために動こうとしない」・・・商売云々ではなく人としてどうよ、それ?と思いますよね。

そんな体験をしたら、自分が後から高級ロード系自転車に興味を持ったとしても、そのお店では買わないですよね。

そうなると、近所にその自転車屋さんしか無ければ、最初だけそういうイヤなお店であっても我慢して買って、それなりに知識を得たらそこでは買い物はしないようになります。

現代はインターネットにいろいろな情報がありますから、自分で買ってはインターネットの情報を元にいろいろ実験し、さらに知識や経験を深めるのは当然ですし、もっと趣味が深まって自分で好きなフレームを組んでくれるビルダーを探したり・・・「自分の好みにしてくれるお店、自分と相性の良い主人のいるお店」を探し当てるでしょう。

そうなると「街のスポーツ系自転車屋さんの、性格的にクセはあるけどちょっと腕の良い職人さん」の存在意義が無くなってしまうのです。

「スペシャルにスゴイ職人さん」であれば、また少し違いますが・・・スペシャルにスゴイ人の場合は、多少の性格の歪みがあったとしても、その圧倒的な仕事力で、ある程度は我慢出来ます。(無制限に我慢は出来ませんけどね)それと、スペシャルにスゴイ人だけど性格も変=ありがち、というのは最近はあてはまらず「ものすごく良い仕事をする人は性格も良い」という場合が多い気がします。

いつもの馴染み客だけを相手にしていれば良い、それだけ相手にしていれば、その親族や知り合いたちに連鎖し、たくさんの人が買い物に来てくれる。そういう態度での商いは人口が増え続け、経済的に上昇を続けていた時代には通用したのかも知れません。

だから、馴染みではない客は適当にあしらっておけば良いのだ・・・良し悪しの分からないヤツなら、品質の悪いものでも渡しておけば良いのだ・・・という具合で良かった。

しかしそれでは通用しない時代になり、売上が減って行った・・・

ところが、それは自分たちが悪いのではなく、大規模店が出店したせいだ、最近の客の質が悪くなったせいだ、支援してくれない政治が悪いのだ、という態度で、問題の根本的な見直しをしない人が多かったのではないか?と思うのです。

そういう時代になっているわけですから、商店街の見た目を今どきっぽいデザインにしたり、インターネットショップを作ったとしても・・・形だけ新しくしても、「中の人」の意識が変わっていなければ同じ事なわけです。

もちろん、そのあたりもしっかり現代的に改善して盛り上がっている商店街もあるのは前提の話ですけどね。

盛り上がらないのは、誰かのせいではなく、自分のせいだ、という事の自覚が始まりなんだなあ、と思う次第です。

しかし、そういう人々の場合は、気づけないままだと思いますけどね。

「悪しき慣習のまま変わるつもりの無い人が外側だけキレイにしたり、今風にして変わったつもりになっている」感じ・・・

そして、重鎮と言われる人達が、少しの努力が実を結んだ良い時代の思い出話と自分がいかに優秀で働き者だったかを繰言し、口では美しき事を言い、現場では違う事をし、益々お客さまが離れて行く・・・


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