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創作の世界も揺り戻しはありますから

古今東西、いろいろな分野で常に「最新」をつくり出そうとするのが人間なわけですが、そうなるとどうしても

【本質的に新しい物事を見出し、洗練させ普遍化する事ではなく、その時代に「どこかの誰かが新しいと設定したもの」・・・言うなれば“先端しぐさ”を身に着けているかどうかの方が重要になっている】

傾向があります。特に文化面ではそうですね。

私は、真に新しい物事=時間を超えてしまう事=新しい物事を伝統と接続し時間を超える事=常に新しくかつ伝統でもあるという領域に持っていく事、と定義しておりますので「先端しぐさ」は興味ありません。

個人的には、今現在、現代思想とか現代美術・・・ついでに言うと、攻撃目標を設定し活動する攻撃的な環境問題提起など、かなり前から“先端しぐさ”に陥っているように感じます。もちろん、そのなかにも真の実力者はいて、そういう人たちは歴史に名を連ね、伝統化するわけです。また、殆どメディアなどには取り上げられないけども、確かな活動をし、実績のある人もおります。そのような人たちは名前が残らない事も多いのが非常に残念です。そういう人たちをキチンと評価出来る社会が高度な文化を持っていると思うので・・・

本当の本当に先端のものには、名前がまだありません。だからこその前衛。

昔の前衛芸術家の誰かが、自分の前衛的芸術作品が社会に認められ、公共美術館に入ると、結局自分の“尖った前衛”も、伝統や一般社会に取り込まれ同化されてしまう様子に悔し紛れに「前衛なんて無かったのさ」とつぶやいたという話を思い出します。その矜持があるなら、その人の作品はいつまでも新鮮な事でしょう。

多くの人が伝統だと思っている「形骸化した権威」ではない、本当の伝統は新しく産まれた本物を飲み込み成長して行きます。そういう事の繰り返しがその民族の伝統の奥行きと新鮮さを作って行くわけです。

ですから、私も含めた一般社会の人々・・・いわゆるギョーカイ人ではない人々は「楽屋ウケ的前衛しぐさ」「身内だけでクールだと思っている先端しぐさ」その他その他、そんなものに辟易している事が多いのではないでしょうか。変なルールが面倒くさいし、面白くもないから。「もういいよ、そういうの、飽きたよ・・・」という感じです。

ギョーカイ人のなかにもそういう“先端しぐさ”にウンザリしている人たちがおります。そういう人たちが「もう一度、昔の良いものを振り返って新しく見直してみよう、それをヒントに本当に新しいものを見出そう」という動きを起こしたりもします。

例えば「現代美術しぐさ」は、結局はその当人が否定していた今まで通りの古臭い権威主義や商業主義の人間のやる事と根本はまるで変わってないと分かった時、人間は「伝統の中から新しい精神を発見し産み出そう」とするわけです。

ルネッサンスしかり、琳派しかり・・・それは、過去に何度も起こったわけで、結局そういうものが本質的な新しさを持ったものになり、色褪せず、光を放ち続けるものになる事が多いと思います。

最近、そんな「揺り戻し」の始まりを感じます。

もちろん突然変異的に新しいものが現れ、歴史に残る事もあります。しかしそれは本当に稀です・・・その稀な突然変異を、ただ否定するのではなく、また無条件に受け入れるのでもなく、過不足無く精査出来るかどうかが、その時代の文化水準を表すのだと思います。

本当の先端は良くも悪くも「際どく危険」で、そこに美が顕現する事があります。もちろん現代にもそういうものを生み出す人たちがいます。そういう流れを止める事は良くありません。

しかし「思念的な現代人しぐさ」をする多くの芸術家たちは古い思想の域を出ないのですから、それは当然古臭いと、どうしても私は感じてしまうのです。


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