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シンプルさは削ることでは得られない

一般的に、シンプルなものの事は

【ギリギリまで無駄を削ぎ落としたもの】

などと言われますが、それではただ不備なもの、奥行きの無いもの、決められた用途を決められた範囲でしか使えないもの、となってしまうと私は考えています。

本来的なシンプルさは、優れた汎用性を包含していますから「単調な見た目や機能=シンプル」ではないのです。

そもそも、構成要素を「いわゆるシンプル」にしようと【“削るのが目的”で削る】のは、内容が減るのでダメなのです。当たり前の話ですよね。

シンプルさに至るには

【必要な要素を分散させずに同じ方向へ向かわせることで達成される】

と、私は考えています。

何かをつくるにあたって、必要な要素は、全て欠けることなく絶対に必要なのです。どれも削ることは出来ません。

それは【構成要素の方向付けの問題】なのです。

本来的なシンプルさは「簡単さ」や「構成要素の少なさ」ではありません。

実際には【いろいろな要素が全て機能するように配線されたものを、さらに凝縮したもの】です。

それはまるで宇宙のビッグバンが起こる前の「点」のようなものです。

本来的なシンプルさは、過去も、現在も、未来すら包含し、奥深い味わいがあり、優れた汎用性があり、その時々の状況によっていろいろな要素を見せつつも、それ自体はいつも同じ発生源として鎮座しているようなものです。

個人的には、茶道の茶盌は、そういう美意識のものだと思っています。

「構成要素を削り落としただけの簡単なもの」は、見た目は一見シンプルに観えてスッキリしますが、内容が足りないので他の助けを必要とします。結果、それを機能させるために、いろいろと補足的な何かが必要となり、総体としては複雑、煩雑になります。

(※機能には、体による実用の他、感覚的機能、審美的機能も存在します)

何か制作するにあたって、分散する構成要素を同じ方向へ向けるのに成功すると、それは足し算ではなく、かけ算でもなく、累乗になります。さらに増幅も起こります。だからそれ以上は付け足す必要はない状態に到達するのです。

それ以上増やすことも足すことも出来ない状態になり、凝縮が起こったら、それは【分離出来ない塊】としてそれ自体が個性を持ち動き出します。

【その「一つの塊」として機能することそのものが「シンプルさ」】だと思います。

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